アヘン戦争

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アヘン戦争(あへんせんそう、阿片戦争)は、1840年6月28日より1842年8月29日に起きた、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(以下、イギリス)との間で行われた戦争である。

概要[編集]

非合法商品である阿片の取り締まりを行った清に対して行った典型的な侵略戦争である。イギリス国内でも戦争の意義が疑問視された。清の敗戦によって当時、鎖国体制を敷いていた日本徳川幕府政権にも動揺を与えた。

戦争に至った経緯[編集]

イギリスの輸入超過[編集]

19世紀初頭、イギリスは清から、陶磁器を大量に輸入しており、それの支払いにで決済していた。貿易はイギリスの輸入超過で、貿易赤字に陥っていた。イギリスから清に輸出するものといえば時計のような奢侈品で、兵器の輸出は清の武力を向上させるので行えず、イギリスは清に大量に輸出できる品を探していた。

阿片の密輸出を開始[編集]

その中でケシから取れる阿片は習慣性の強い麻薬で、中毒患者が次々と買い求めることになることからこれを輸出することに決定した。既に清には阿片の存在は知られていたが、それは医療用の鎮痛剤として用いられており、流通量もわずかであった。
しかし、当時の清は満州民族が支配しており、漢民族は政府内で高い地位に就くことはできず、世の中には不平不満が高まっていた。そこで体に悪いことはわかっていても阿片に手を出す人が後を絶たなかった。清は阿片の輸入を原則として禁止していたが、阿片商人から清の現場担当の役人に賄賂が渡され、清に大量に阿片が密輸入された。清からはイギリスに大量に銀が流れ、経済は疲弊し、さらに阿片は高級官僚や軍隊にまで蝕んできた。この事態に清政府は事態の打開に高級官僚を集めて会議を開いた。

取り締まりの強化[編集]

御前会議では大きく分けて二つの案が示された。一つは阿片の合法化で、輸入の際に関税を取り、清の財政に当てるというものである。もう一つは厳禁策で、阿片売買をした者、吸引をした者は死刑を含む厳罰に処すというものであった。激論が交わされた結果、ときの皇帝である道光帝は厳禁策を取り、これを強く訴えた欽差大臣林則徐に取り締まりを命じた。林則徐は賄賂の受け取りを拒否し、外国商人から阿片の提出を迫り、これに拒否すると食料と水の売買を拒否した。こうして集められた阿片は公開の場で海水と石灰を用いて処分された。

開戦から停戦[編集]

イギリス議会はこの阿片の没収を理由に対清宣戦布告を決定した。しかし反対論も根強く、賛成派は反対派をわずかに上回ったに過ぎなかった。海軍が派遣され、清の沿岸を砲撃し、部隊が上陸した。戦況が清に不利になると清の政府は軍の指揮をとっていた林則徐を欽差大臣から罷免させて西域に左遷させ、イギリスとの和睦を結んだ。結局、清は巨額の賠償金の支払いと香港の割譲による条件でイギリスと和睦した。

清の敗戦の原因[編集]

イギリス軍の大砲、小銃が性能の良い最新式のものであること、各地で転戦してきた歴戦の将兵がいたことが挙げられる。清国軍は大砲、小銃が数も十分でなく、古くて射程距離も短いものであること、将兵に戦争の経験のないこと、指揮官の林則徐が軍の専門家でない文官であることが挙げられる。

戦後の推移[編集]

イギリスとの敗戦によっても清の国家体制は変わらなかった。敗戦といっても首都から遠く離れた沿岸部でのことであり問題視する人は少なかった。中国本土が異民族によって攻撃されることは歴史上少なくない事柄であり、アヘン戦争もそのうちの一つにすぎないと考えられたからである。清自体、満州民族という異民族の支配する国家であるということもその理由である。また、儒学では、他国を武力で侵略することは野蛮人(西戎、南蛮)の行う行為であり、清はイギリスに屈服するどころか、敗戦後もイギリスを野蛮人扱いした。

戦後の推移[編集]

清はヨーロッパ列強の半植民地化の道を開くこととなった。香港が割譲され、租借地の九龍と共にイギリスの植民地となったことは後の歴史に大きな影響を与え、ポルトガルマカオを正式に自国領とした。
清は巨額の賠償金の支払いのために国民に重税を課し、これが太平天国の乱に繋がった。

影響[編集]

清の敗戦は、鎖国下で天保の改革に着手していた日本の徳川幕府にも伝えられ、異国船打払令の廃止と薪水給与令の制定に繋がった。

関連項目[編集]