井伊直弼

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井伊直弼(墓) 豪徳寺
井伊直弼(墓の表示)

井伊 直弼(いい なおすけ、文化12年10月29日(1815年11月29日) - 安政7年3月3日(1860年3月24日))は、江戸時代末期(幕末)の譜代大名政治家である。近江彦根藩35万石の第15代藩主[1]。江戸時代の大老である。

生涯[編集]

幼少時代[編集]

彦根藩・第十一代藩主の井伊直中の十四男として彦根城槻(けやき)御殿で文化12年10月29日に生まれる[2]槻御殿は彦根城の北東の別邸である。母は直中の側室・富(とみ)である。富は君田十兵衛重道の娘で「お富の方」と呼ばれた。幼名は鉄之介、のちに鉄三郎と改めた。生まれたときは、3番目の兄・井伊直亮が第十二代藩主に就任していた。文政2年(1819年)2月、直弼が5歳の時に亡くなった。天保2年(1831年)5月、直弼は17年間過ごした槻御殿を離れ、彦根藩の御用屋敷のひとつである尾末町屋敷に弟の井伊直恭とともに移った。そこで「部屋住み|部屋住」生活に移行した。屋敷の広さは間口36間、奥行き19間半の約700坪である。 直弼は兄の直亮から300俵の「捨て扶持」を与えられて彦根城下の屋敷に居住していたという説があるが、実際にはこの300俵は一般藩士の300俵とはくらべものにならない程豊かであった。なぜなら、一般藩士は300俵から陪臣の扶持や全ての家内財政を賄わなければならないが、直弼は燃料費や屋敷の維持管理費用は藩の財政から別途に支給される[3]。 学問は儒学を基礎とし、手習・素読を8歳前後から開始する。次いで儒書・兵学の講習へと進み、元服の頃には儒書の演習を行う。なお井伊家では庶子として過ごすことを「部屋住」とは呼ばない。直弼は天保3年(1832年)12月頃、18歳で元服した。

元服から世子へ[編集]

井伊氏は徳川幕府譜代大名の筆頭であるため分家は許されていない。天保5年(1834年)秋、直弼は弟の井伊直恭とともに兄・直亮の招きで嗣子のいなかった延岡藩主内藤政順の養子候補者として江戸に呼び寄せられた。約1年間江戸に滞在したが、弟の直恭は延岡藩の内藤政順の養子になることが決まった。養子縁組後は内藤政義(日向延岡藩の第七代藩主)と改名した。直弼は採用されず、尾末町屋敷に戻った。 兄の直亮には実子が無かったため、跡継ぎの可能性もあったが、直亮と直弼の間には多数の兄弟がいた。直亮は直弼の同母兄である直元を養子に迎えており、そのため本家を継げる可能性は薄かった。

長野主膳との出会い[編集]

直弼が長野主膳(諱は「長野義言」)と出合ったのは天保13年(1842年)ころである。 長野は伊勢・三河・美濃で国学を講じた後、坂田郡市場村の三浦太冲宅に滞在し、国学を講じ12名の門人を得た。市場村は彦根藩領であるため直弼の耳に入り、初対面は天保13年(1842年)11月20日となった。直ちに長野主膳と師弟関係を結ぶこととした。この頃は直弼の大きな関心は和歌にあった。長野主膳の学舎「桃廼舎」の祝賀のため、掛軸や歌会の和歌を手配したりしている。また直弼と彦根藩関係者は長野主膳を和歌の師として添削を頼んでいた。また禅や仏教への関心も持っていた。天保14年(1843年)ころ長浜大通寺から直弼を法嗣に迎えたいとの内願書が彦根藩に提出された。本人は乗り気であったが、彦根藩は「若殿様」(井伊直元)にまだ実子がないため、直弼を養子に迎えるという方針が既に決まっていたため、天保14年(1843年)9月に断念することになった。

世子へ[編集]

直弼は32歳の時の1846年弘化3年)1月に兄の直亮の世子であった井伊直元が死去したため、江戸出府を命じられた。2月28日、将軍への拝謁を得て世嗣を許可され、兄・直亮の養子となった。同年2月28日、江戸城に初登城し、溜詰大名として、五節句・月次の登場や儀礼では「御先立」などの役割を果たした。翌1847年弘化4年)、彦根藩に対して相模湾警衛が任命された。従来は東北の譜代大名もしくは、一門大名から任命される役割であるが、直弼は彦根藩の家格に瑕がついたと感じていた。しかし相模湾警衛の現場では軍備の不備から、他藩の嘲笑を受ける始末であった。

直弼は世子となっても直亮からは冷たくあしらわれた。藩主井伊直亮への警戒感もあった。また兄の井伊直亮が家臣の錬言を用いず、専制を振る現状を信頼する側近老臣の犬塚正陽とともに嘆いていた。父の井伊直中はその遺言状で直亮の人格の問題を指摘している[4]。その後、嘉永3年(1850年)11月21日、井伊直亮の死去により直弼は正式に藩主となった。

譜代大名の重鎮[編集]

嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリーが来航(黒船来航)して、当時の老中首座・阿部正弘が諸大名に対策を尋ねた際、直弼は積極的に開国し、臨機応変にアメリカ合衆国と対応することを答申している。

老中首座の堀田正睦は一橋派の松平慶永を大老に就任させ難局を乗り切るよう将軍徳川家定に進言したところ、家定は「家柄と申し、人物と申し、大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言い、直弼の大老就任が決まった。安政5年(1858年)4月23日、大老に就任する。このころ幕府は南紀派一橋派に分裂していた。長野主膳は井伊直弼の補佐役となり、公家への工作に従事した。

大老就任後は、将軍徳川家定と相談して紀伊の徳川慶福を後継とすることが内定した。その頃、米国総領事ハリスは軍艦で神奈川沖まで来て、英仏軍がまもなく日本へ到着すると脅し、即時条約締結を勧告した。6月18日、江戸城内で幕閣が集まり評議が行われ、幕閣の多数は即刻調印を訴えるが、直弼は天皇への説明を優先するよう主張し、天皇へ説明するまで調印を引き延ばす方針を決定した。ハリスに応接していた岩瀬忠震井上清直は万一の際は調印してもよいかと尋ねると、直弼は致し方ないと回答するや、両名はハリスのもとに向かい、その日のうちに調印してしまった。6月19日にポーハタン号上でハリスとの間に日米修好通商条約が調印された。一橋派は、孝明天皇の勅許がないままの独断であるから違勅調印であるとして、直弼は攻撃を受けた。

安政の大獄[編集]

これらの出来事に対して徳川幕府や井伊直弼への批判の声が大きくなり、井伊直弼は言論弾圧を行った。これが安政の大獄である。幕府は尊王攘夷派や一橋派を弾圧する。京都での梅田雲浜橋本左内梁川星厳ら志士や志士に近い吉田松陰らの逮捕、朝廷内の宮家、公卿の尊王派ら、徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤一橋慶喜らは蟄居・謹慎などの処分を受けた。譜代大名が公家や親藩を処分するという前代未聞の出来事である。また、斉昭と親密だった島津斉彬の側近の西郷隆盛も幕府の手配を受け、変名を使って奄美大島へ隔離した。

桜田門外の変[編集]

安政の大獄の大弾圧は、のちに桜田門外の変を引き起こし、安政7年(1860年)3月3日の朝、将軍・徳川家茂に桃の節句の賀詞を述べるために江戸城に登城する最中の桜田門外において、水戸藩浪士及び薩摩藩浪士らによる襲撃を受け、薩摩藩浪士の有村次左衛門に首をとられて暗殺された。享年46(満44歳没)。

死後[編集]

暗殺という不名誉な死去を遂げたため、本来ならば井伊家は断絶改易は必至であったが、老中安藤信正の裏工作もあり、表面上は直弼は重傷を負って存命とされた。そして、嫡男の愛麻呂(直憲)を後嗣として跡を継がせる処置が整うと、3月晦日に直弼は大老辞任、さらに1ヶ月後の閏3月晦日に直弼の死が正式に公表された。

葬儀は4月9日に世田谷の豪徳寺で行なわれた。4月28日に井伊家の家督は井伊直憲が継承。直憲は相続後に減封処分を受けたこともあり、戊辰戦争では最初から新政府軍側に付いている。

昭和戦後に彦根市長を務めた井伊直愛は、直弼の曾孫にあたる。

家族[編集]

父母[編集]

[編集]

子女[編集]

井伊直弼が登場した作品・行事[編集]

銅像[編集]

  • 掃部山公園
    • 神奈川県横浜市西区の掃部山公園には横浜開港に関わった井伊直弼の銅像が建っている。1909年(明治42年)6月26日に竣工した。
  • 金亀児童公園
    • 滋賀県彦根市金亀町の金亀児童公園内に井伊直弼の銅像が建てられている。
  • 豪徳寺
    • 東京都世田谷区豪徳寺内に高さ112.6cmの井伊直弼銅像があるが、非公開である。世田谷区指定有形文化財(歴史資料)。藤田文蔵により戸部山に建てられた銅像の制作過程において藤田が彫刻したと言われる。

石碑[編集]

  • 名称:井伊直弼公敬慕碑
  • 指定:有形文化財(美術工芸品)、狛江市重宝(歴史資料)
  • 指定年月日:2015年(平成27年)3月17日
  • 所在地:東京都狛江市中和泉三丁目21番8号
  • 所有者:宗教法人伊豆美神社
  • 構成:記念碑(竿石、台石)
    • 井伊直弼公敬慕碑は、明治34年(1901年)に井伊直弼を顕彰する記念碑として最初に建てられた。伊豆美神社と和泉地域の人々が中心となり、狛江村を挙げての運動によって建てられた[5]

井伊直弼画像[編集]

切手[編集]

  • 日本開国百年記念 (1958年5月10日発行)

博覧会[編集]

小説・評伝[編集]

No タイトル 著者 刊行年 出版社
1 花の生涯 舟橋聖一 1953年 新潮社
2 開国始末:井伊掃部頭直弼伝 島田三郎 1968年 人物往来社
3 幕末閣僚伝 徳永真一郎 1982年 PHP研究所
4 桜田門外ノ変 吉村昭 1988年 新潮社
5 井伊直弼:はたして剛毅果断の人か? 山口宗之 1994年 ぺりかん社
6 井伊直弼-己れの信念を貫いた鉄の宰相- 星亮一 1997年 PHP研究所
7 おおとりは空に 津本陽 1999年 淡交社
8 安政の大獄 : 井伊直弼と長野主膳 松岡英夫 2001年 中央公論新社
9 井伊直弼修養としての茶の湯 谷村玲子 2001年 創文社
10 安政五年の大脱走 五十嵐貴久 2003年 幻冬舎
11 藍色のベンチャー 幸田真音 2003年 新潮社
12 化天―小説最後の武士・井伊直弼 龍道 真一 2003年 廣済堂出版
13 井伊直弼の茶の湯 熊倉功夫 2007年 国書刊行会
14 埋木舎と井伊直弼 大久保治男 2008年 サンライズ出版
15 井伊直弼の首―幕末バトル・ロワイヤル 野口武彦 2008年 新潮社
16 井伊直弼と黒船物語-幕末・黎明の光芒を歩く- 豊島昭彦 2009年 サンライズ出版
17 大老井伊直弼 羽生道英 2009年 光文社
18 茶湯一会集・閑夜茶話 井伊直弼 2010年 岩波書店
19 巨人伝説 野口武彦 2010年 講談社
20 祇園の女狐-井伊直弼の密偵・村山たか- 櫻田啓 2011年 PHP研究所
21 井伊直弼・伊達宗紀密談始末 (宇和島伊達家叢書 第1集) 宇和島伊達文化保存会監修
藤田正 編集・校注
2011年 創泉堂出版
22 散斬 佐伯泰英 2012年 講談社
23 安政の大獄-井伊直弼と長野主膳- 松岡英夫 2014年 中央公論新社
24 井伊直弼のこころ : 百五十年目の真実 彦根城博物館 編 2014年 彦根城博物館
25 一期一会の世界 : 大名茶人井伊直弼のすべて 彦根城博物館編 2015年 彦根城博物館
26 Naosuke・直弼・なおすけ : 近現代の中の井伊直弼 彦根市教育委員会事務局
文化財部文化財課編
2016年 彦根市教育委員会
事務局文化財部文化財課
27 雪辱: 真説・井伊直弼 野村 しづ一 2017年 サンライズ出版

戯曲[編集]

No タイトル 作者 発行 制作年
1 井伊大老 北条秀司 宝文館 1955年[8][9]
2 大老 北条 秀司 青蛙房 1971年[10]
3 井伊大老の死 中村吉蔵 天佑社 1920年[11]

映画[編集]

No タイトル 監督 公開年 配給 出演
1 花の生涯 彦根篇 江戸篇 大曾根辰夫 1953年 松竹 松本幸四郎淡島千景
2 勤王? 佐幕? 女人曼陀羅(二部作) 渡辺邦男 1956年 新東宝 嵐寛寿郎宇治みさ子
3 桜田門外ノ変 佐藤純彌 2010年 東映 大沢たかお長谷川京子
4 柘榴坂の仇討 若松節朗 2014年 松竹 中井貴一広末涼子

テレビドラマ[編集]

主役でなくとも井伊直弼が登場するテレビドラマである。

No タイトル 放送 放送開始 最終回 出演
1 花の生涯 NHK 1963年4月7日 1963年12月29日 二代目尾上松緑、佐田啓二、淡島千景
2 花の生涯 日本テレビ 1974年4月2日 1974年9月24日 平幹二朗、武原英子、加藤剛
3 影の軍団IV KTV 1985年4月2日 1985年10月1日 千葉真一真田広之志穂美悦子
4 必殺ワイド・秋 大老殺し ABC 1987年10月2日 単発 藤田まこと三浦友和坂口良子
5 花の生涯 TX 1988年1月2日 単発 北大路欣也、島田陽子、佐藤慶
6 翔ぶが如く 第一部 NHK 1990年1月7日 1990年7月29日 西田敏行、鹿賀丈史、田中好子
7 徳川慶喜 NHK 1998年1月4日 1998年12月13日 本木雅弘、若葉竜也、菅原文太
8 河井継之助 駆け抜けた蒼龍 NTV 2005年12月27日 単発 中村勘三郎(18代目)、稲森いずみ
9 篤姫 (NHK大河ドラマ) NHK 2008年1月6日 2008年12月14日 宮﨑あおい、瑛太、堺雅人
10 龍馬伝 NHK 2010年1月3日 2010年11月28日 福山雅治、児玉清、寺島しのぶ
11 八重の桜 NHK 2013年1月6日 2013年12月15日 綾瀬はるか、西島秀俊、松方弘樹
12 花燃ゆ NHK 2015年1月4日 2015年12月13日 井上真央、大沢たかお、北大路欣也
13 西郷どん NHK 2018年1月7日 2018年12月16日 鈴木亮平、黒木華、渡辺謙

同時代の大名[編集]

彦根藩主在位中の将軍・大大名は以下の通り。

大老在位中の主要幕閣は以下の通り。

外部リンク[編集]

注・参考文献[編集]

  1. 代数の数え方に複数あるため、墓所の表示は第13代となっている。
  2. 「井伊家歴代戒名一覧」
  3. 母利美和(2006)『井伊直弼』吉川弘文館
  4. 東京大学史料編纂所編(1958)『井伊家史料 第一巻』東京大学出版会
  5. 井伊直弼公敬慕碑狛江市
  6. 井伊直弼画像世田谷区
  7. Wikipediaに彦根城博物館蔵 とあるのは誤りである。
  8. 1956年3月初演
  9. 北條秀司関係資料
  10. 昭和45年11月国立劇場で初演
  11. 1920年4月「早稲田文学」誌に発表。


先代:
井伊直亮
井伊(掃部頭)家当主
34代
次代:
井伊直憲