日独伊三国同盟
日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito、英:Tripartite pact)とは、1940年9月27日に締結された軍事同盟である。1945年5月7日のドイツ降伏で事実上瓦解した。
概要[編集]
1939年6月1日、ドイツによるポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まった。ヨーロッパの覇権を狙うナチス・ドイツは鬼畜米英との対立を強め、同じく東南アジア進出を巡ってアメリカと敵対していた大日本帝国に接近した。日本政府との同盟締結は連合国を牽制する材料になると踏み、1936年の日独防共協定をさらに強化した軍事条約を結ぶ運びとなった。これにファシズム発祥の地・イタリア王国を加え、1940年9月、ベルリンの総統官邸にてヨアヒム・フォン・リッベントロップ、来栖三郎、ガレアッツォ・チャーノが著印。満を辞して日独伊三国同盟が締結された。
また、後にブルガリア・ルーマニア・ハンガリーなど東欧諸国も参加した。
内容[編集]
簡単に要約すると、「日本は独伊によるヨーロッパの新秩序を認め、独伊は日本による東アジアの新秩序(大東亜共栄圏)を認める」「加盟国が他国から攻撃された際は一緒に助け合う(ソ連を除く)」。
問題点[編集]
軍事同盟は結んだものの、実際日独伊は全く連携が取れていなかった。日本はドイツの独ソ不可侵条約、独ソ戦に振り回され、イタリアはギリシャやエジプトを攻撃するも失敗、ドイツの戦線を広げる大戦犯をかました挙句離脱した。なぜこんなことになったのかというと、もともと日独伊の仲が悪かったことが挙げられる。例えば、イタリアとドイツはオーストリア併合を巡って争っていたし、日本とイタリアはエチオピア侵攻と満州事変を互いに非難し合っていた。日本国内でも、ナチスの人種迫害政策は有名となっており、山本五十六や石原莞爾などは白人至上主義を掲げるドイツとの同盟に反対していた。