真珠湾攻撃
真珠湾攻撃 (しんじゅわんこうげき)とは、1941年12月8日(現地時刻12月7日日曜日早朝)に起きたハワイ真珠湾で起きた大日本帝国海軍によるアメリカ合衆国への軍事攻撃である。
概要[編集]
大艦巨砲主義は時代遅れと称える山本五十六によって発案、推進された。従来、日米決戦はフィリピン近海で戦艦同士の戦いによって行われるものと想定されていたが、軍用機の性能の向上の結果、これは敗北主義と考えられるようになった。真珠湾攻撃は将兵が基地や軍艦から出払ってしまう反撃する機会のない日曜日の早朝、宣戦布告直後に航空母艦から発艦した軍用機によって敵の軍港を攻撃するという画期的な軍事攻撃であった。「鵯越の戦いと桶狭間の戦いと長篠の戦いをいっぺんにやるような奇襲が必要」と山本五十六は考えていた。この計画にはあまりにも投機的すぎると内部で猛反対があり、図上演習でも失敗と判断されたが、無線封鎖と北方航路の採用で成功の確率が高くなり、山本五十六も海軍辞職をちらつかせて採用に至った。アメリカ合衆国側からもかつてはウィリアム・ミッチェル准将など幾人かの軍人から可能性があると警鐘されていたが省みられなかった。秘密裏に計画され、実行された攻撃は大日本帝国側に戦術的な成功をなしとげたが、様々な齟齬が発生した。
目的[編集]
南方作戦を支援するための攻撃である。また、アメリカ海軍の航空母艦を行動不能にさせて海戦の主導権を大日本帝国海軍が握り、アメリカ国民に厭戦気分を蔓延させ、アメリカ海軍の航空母艦が新しくできるまでの一年半以内に日本側に有利な条件で講和に至るようにするための攻撃であったが、後述のとおり逆効果となった。
攻撃の推移[編集]
大日本帝国海軍は事前に現地に遊び人に扮したスパイを送り込み、軍艦の出入りや建築物の構造配置、水兵の日常行動に至るまで徹底的に調査を行った。そして人の出入りの少ない択捉島の単冠湾に部隊を集結させて島内の郵便局を無線封鎖させて外部との連絡を絶たせた後に出港し、この時期、商船の航行のない北方へ進路を取った。日米交渉が妥結したときは攻撃隊は、たとえ発艦後であってもすべてを捨てて帰ってくるよう厳命されていた。このため、艦内の通信員も日米交渉が妥結したか否かの連絡がいつ入るか緊張を強いられた。
日本側の攻撃[編集]
6隻の航空母艦から九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機、零式艦上戦闘機が発艦し、2回に分けて行われた。特殊潜航艇5隻による攻撃も行われたが、戦果は不明。乗組員10人の内9人は戦死、一名は捕虜となった。
アメリカ側の反撃[編集]
真珠湾攻撃の前に駆逐艦が国籍不明の潜水艦を発見して攻撃を行った。一方、真珠湾では攻撃目標とはされなかった中小艦艇や地上部隊が行った。日本側に知られていなかった陸軍航空基地から戦闘機が発進した。
結果[編集]
アメリカ合衆国側は、湾内に停泊していた軍艦の沈没、損傷、基地内の軍用機の破壊といった損害を出したものの、艦艇の修理施設や燃料タンクは無傷で、大日本帝国海軍が主目標としていた航空母艦も湾内におらず、無傷であった。日本側の損害は軍用機のみで、懸念されていた航空母艦の損害はなかった。
影響[編集]
大艦巨砲主義は過去のものとなり、海戦は航空母艦が中心となった。一方、アメリカ合衆国への宣戦布告は攻撃後に遅れてしまい、「騙し討ち」と叫ばれ、アメリカ合衆国国民は激怒した。早速、アメリカ合衆国は臨時に議会を開き、圧倒的多数の賛成を持って対日宣戦布告がされた。これにより後世に太平洋戦争と呼ばれる戦争が開戦した。こうして第二次世界大戦は太平洋、東南アジアに広がり、世界を呑み込んだ。
攻撃に使用された軍用機[編集]
攻撃当日の航空母艦「瑞鶴」の食事[編集]
朝食 | 握り飯、ボイルドベーコン、きんぴらごぼう、味付け昆布、たくあん |
昼食 | 握り飯、おでん (牛肉、里芋、大根)、たくあん |
夕食 | 弁当、煮込 (豚肉、人参、馬鈴薯、大根) |
夜食 | 乾パン、栄養食 |
爆撃前 | 鉄火巻、卵焼き、煮〆 (大根、人参、松茸)、増加食 (りんご、紅茶、熱量食) |
応急食 | 機上応急食 |
爆撃後 | みつ豆、増加食 (コーヒー、冷やしサイダー、熱量食) |
関連項目[編集]
参考文献[編集]
エンペディア 節目の記念記事 |