日清戦争
日清戦争(にっしんせんそう、英:First Sino-Japanese War)とは、1894年8月1日に宣戦布告、1895年4月17日に講和で終わった、大日本帝国と清の間での戦争である。
概要[編集]
1894年4月26日に李氏朝鮮で勃発した甲午農民戦争(東学党の乱)は、農民軍が政府軍を各地で破ったため李氏朝鮮の要請に応じて清国軍が朝鮮に出兵した。これに対抗して日本軍も朝鮮に出兵した。農民軍は鎮圧できたが両軍が撤退せず衝突した。圧倒的な軍事力の差で清が有利と思われていた戦争は士気の高い大日本帝国が勝利し、清から賠償金などを受け取った。
他の側面[編集]
この戦争のもう一つの側面として、旧琉球王国の支配権の攻防戦争が挙げられる。旧琉球王国は日本と清国の朝貢両属関係にあったが、王家の第二尚氏の大日本帝国の華族化および薩摩藩→鹿児島県の属領関係を断ったのを契機に清国への朝貢も取りやめた。これに清国は不服で、大日本帝国主導の琉球処分で実効支配権が強まるにつれ、清国は琉球王朝の復興と旧習の復活を企図したまま、戦争に突入した。しかし、日清戦争に清国が完全敗北したことで、清国は琉球に対する宗主権復活の機会を完全に喪失し、沖縄県としての大日本帝国の完全国領化が国際的に認められた。
戦争の経緯[編集]
影響[編集]
巨大な陸軍と北洋水師をはじめとする東洋一の艦隊を有していた清は「眠れる獅子」と呼ばれ、恐れられていたが、弱体化が露呈したため、さらに列強の半植民地化が進んだ。この影響で清の国民はさらに窮乏し、義和団事件を招いた。
朝鮮は清国との朝貢関係を解消したが、高宗の王妃、閔妃は親露寄りの路線を取り、反閔妃勢力や日本の大陸浪人が王宮に侵入する中で閔妃は殺害。高宗もロシア公使館に逃げ、日露戦争の前哨戦となった。
日本国内[編集]
開戦前、山陽鉄道が広島まで延伸していたので、大本営が広島に臨時に移り、第七回帝国議会も広島で開催された。なお、帝国議会の地方開催はこれが唯一である。