慶安事件

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慶安事件(けいあんじけん)とは、慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった江戸幕府転覆計画の未遂事件である。由比正雪の乱(ゆひしょうせつのらん)、由井正雪の乱(ゆいしょうせつのらん)、慶安の変(けいあんのへん)とも呼ばれることがある。主な首謀者は由井正雪丸橋忠弥金井半兵衛熊谷直義であったとされる。わずかな未遂事件であるが、日本の歴史の重要な出来事として紹介されることが多い。

経緯[編集]

前段階[編集]

江戸幕府武家諸法度などで厳しく大名を統制して支配下に置いていた。特に厳しかったのは末期養子の禁止である。大名の中にも、いくら正室側室を置いても、子供に恵まれなかったり、恵まれても女子ばかりで男子が生まれないケースもあった。実子がいる場合は家督相続が許されるが、いない場合は初期の江戸幕府はそれを理由に御家断絶として改易に追い込むケースが多かった。慶安年間、つまり第3代征夷大将軍徳川家光の時代までに至る徳川氏3代、およそ50年間の間に末期養子が認められず、改易に追い込まれた大名は61家、所領にして約517万石に及んだとされている。

改易された際、まだ大名家の親族や家老などは、幕府に旗本として取り立てられたり、別の大名家に仕官して用いられたりすることもあったが、大多数の武士浪人となってしまった。つまり、就農や商人、職人に転じて、武士の面目を捨てない限り、無職になってしまい、生活困窮者になってしまうのである。
乱世の場合なら、勇猛な武士などはまだ新しい就職先もあったが、江戸幕府が成立して50年もすぎると、体制はすっかり安定化して平和な時代となり、そのため新たな働き口などほとんど見出すことはできなかった。浪人と化した武士は江戸など各地に散り、社会不安を生むようになる。江戸幕府もこれに対して厳しく取り締まるが、そもそも厳しい政策で大名を次々と取り潰すのだから、いくらやっても無意味に近く、浪人の不満はたまる一方であった。

反乱計画[編集]

慶安4年(1651年)4月、徳川家光が死去し、嫡子家綱が第4代将軍に就任する。ところが、家綱はまだこの時わずか数えで11歳であり、少年将軍で幕府の統制が緩んだと見られるようになった。実際、家綱の相続で諸大名の誰かが反乱を起こすのではないかと恐れた幕府は、江戸城に諸大名を集めて新将軍の下でまとまるべく宣言をしているほどである。

軍学者として名高い由井正雪はこのような情勢下で幕府の転覆計画を練る。計画は丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐する。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山吉野に逃れ、そこで徳川幕府の壊滅を正当化するための勅命を得て、全国の浪人たちを味方に付け、幕府を支持する者たちを完全に制圧する、という鎌倉幕府滅亡を参考にした作戦であった。

しかしこの計画は事前に幕府側に発覚し、老中松平信綱を中心にしてすぐに対策が打たれた。正雪は駿府自殺に追い込まれ、丸橋は江戸で逮捕されて後に処刑、その他のメンバーも幕府に取り押さえられて処分された。反乱は完全な失敗に終わり、幕府の老中集団合議体制が確固たることを天下に示したのである。

幕政の転換[編集]

この反乱は失敗に終わったが、幕府を驚愕させるには十分だった。事件後、幕府では閣老会議が開かれ、酒井忠勝はこの反乱に大坂の役島原の乱などで浪人となった面々が関与していたことから、江戸から残らず浪人を追放するべきと発議した。これに対して阿部忠秋は、今回の反乱計画は、無嗣の大名の改易など幕府の厳しすぎる大名統制策が浪人の急増を招いて起こったものであるとして反対し、嗣子御目見得前の末期の養子取りの改定を発議する。

会議の結果、幕府は急遽、末期養子の禁令を緩和することを決定した。これにより、これまでは認められなかった50歳以下の者の末期養子が認められるようになる。幕府は後に第5代将軍・徳川綱吉の時代である天和年間に末期養子を50歳以上70歳以下でも許可するようになる。また、幕府はこの後、これまで武力を背景にして厳しく大名を統制していた一連の政策を見直し、幕政を武断政治から文治政治へと転換してゆくことになる。

以降、後継者不在で御家断絶、すなわち改易されるケースは減少したが、文化・文政年間あたりから、「養子取り」が政治の道具になり、血縁で後継可能な親族がいるのに、徳川将軍家から養子を取った紀州徳川家のようなケースや、黒田池田蜂須賀南部の本家のように血統が全く変わってしまった大名家もある。
また、改易が多ければ、その後収公した土地を原資に、新たに有能な幕臣を大名に取り立てることも容易だが、余程のことでない限り新規の大名取り立ては困難となった。

慶安事件を題材とした作品[編集]