浪人

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浪人(ろうにん)とは、知行俸禄主家などを失った武士や所属の決まらない無業者のことを主に指す。

概要[編集]

浪人とはあくまで「主家を失った」「俸禄を失った」武士を主に意味し、近世では苗字帯刀は許されて武士として認知はされていた。使用する意味や背景は時代によって異なる。

豊臣政権以前[編集]

古代から室町時代までは浪人は「牢人」あるいは「浮浪」と言われることが多く、その意味も主家を去って、生計の糧となる知行を失った者を指す場合が多かった。織田政権頃から浪人の意味が定着するようになるが、当時は乱世であり、そのため戦国大名の軍隊には「牢人衆」という部隊が存在した。記録では甲斐武田氏には名和無理介ら牢人衆が存在しており、その戦闘力は侮りがたいものだったといわれている。

豊臣政権以降[編集]

豊臣政権から大名改易が盛んに行われるようになり、そのため多くの浪人が発生しだした。この傾向は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い東軍が勝利し、勝利した徳川家康によって西軍の諸大名の多くが減封改易に処されたことにより江戸時代前期に大量に発生するに至る。さらに大坂の陣豊臣氏が滅亡し、徳川秀忠徳川家光の時代には外様大名や後嗣不在の大名を主にした改易や転封が盛んに行われたため、浪人が急増して家光末期には40万を超えていたと見られている。これがやがて浪人の大きな不満となり、家光没後の家綱時代に由井正雪らによる慶安事件が勃発することになる。以後、江戸幕府文治政策に転換し、末期養子の緩和による大名の嗣子の確保などで浪人を増やさないように努力した。
しかし、これ以後も改易や減封、転封などを伴う政争が相次ぎ、加えて禄高など待遇への不満も理由となって、浪人は一定数は発生していた。それでも平和な世が江戸時代に続いたため、そのため浪人が新たな主家を見つけて仕官するのが難しかった事情がある。

なお、自ら主家を捨てて浪人になる例もあり、有名な新井白石などは父の新井正済が主君の土屋直樹が仕えるに足らない人物と見るや、自ら父子で主家から去って浪人となっている。加えて、江戸時代末期には坂本龍馬のような脱藩者が世の中を左右するようになった。

武士社会終焉後[編集]

過年度生」も参照

武士の世の終焉とともに、武士は士族となり、浪人という身分は消滅した。代わって、大陸浪人などのようにフリーランスの活動家に浪人の言葉が充てられるようになった。

現在では、入学試験に不合格で再試験で合格を目指す人に向け「浪人生」、「中学浪人」、「仮面浪人」、解雇されて再就職を目指している人に向け「就職浪人」などと言う場合がある。

関連項目[編集]