一世一元の制
一世一元の制(いっせいいちげんのせい)は君主(皇帝、天皇、国王)1人あたり年号(元号)は一つだけ制定し、存命中は改元しない制度である。ただし、退位により改元した例はある。
概要[編集]
日本の一世一元の制[編集]
歴史における改元[編集]
元号を定めるのは君主の特権とされている。江戸時代までは、1代の天皇の代に何度も改元されていた。
孝徳天皇の時代の650年(大化6年)、穴戸国(長門国)の麻山に白いキジが現れ、国司が朝廷に献上した。朝廷は祥瑞(めでたい兆し)として初の改元を行って、元号を「白雉」と改めた。さらに同国の税を3年間免除した[1]。
幕末期の孝明天皇の在位下では、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と6回の改元を行っている。
一世一元の制の創始[編集]
1868年9月8日に改元詔書が出され、9月12日には、行政官から「慶応4年を改めて明治元年と為す」とし、「今より御一代一号に定められた」という旨も全国へ布告した。これが日本における「一世一元の制」の始めである。
明治元年9月8日(1868年10月23日)行政官布告 今般 御卽位御大禮被爲濟先例之通被爲改年號候就テハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ屢改號有之候得共自今 御一代一號ニ被定候依之改慶應四年可爲明治元年旨被 仰出候事 詔書 詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖代之典型而萬世之標準也朕雖否德幸賴 祖宗之靈祇承鴻緖躬親萬機之政乃改元欲與海內億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者施行 明治元年九月八日
(趣旨)天皇一代で1年号とし万世の標準とする。慶應四年を明治元年と改める。(著作権はパブリックドメインである、また法令は著作権の対象ではない。以下同様)
一世一元の制の確立[編集]
その後、旧皇室典範で「一世一元の制」が定められた。
皇室典範 (明治二十二年二月十一日) 第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ
戦後の一世一元の制[編集]
1947年(昭和22年)5月3日施行の皇室典範では元号の規定が明記されなかったため、「一世一元の制」の法的根拠はなくなった。そのため、「一世一元の制」が規定された元号法が改めて制定され、1979年以降の改元による元号の制定は政令に付託されることになった。
昭和五十四年法律第四十三号 元号法
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
平成から令和[編集]
2019年(平成31年)4月1日に、「元号を改める政令」(平成31年政令第143号)が公布され、平成から令和に改元された。同日限りで天皇が退位し、皇嗣であった徳仁皇太子に皇位の継承が行われることとなったため(いわゆる生前退位)である[2]。
中国の一世一元の制[編集]
年号(元号)は、漢の武帝が紀元前140年に定めた建元元年が最初である。改元は皇帝は時間を支配するという思想により、皇帝だけの権限であった。各王朝の皇帝は、祥瑞や天災があると改元していた。
1368年に明を建国した朱元璋は、年号に洪武を立て、皇帝一代一元として改元しいないことを命令した。明、清の皇帝はいずれも一世一元の制を守った。
中華民国(台湾)は1912年1月1日の建国第1年を「民国元年」とする民国紀元が現在の台湾でも継承されている。東アジアにおいては、歴史的に中国の暦を用いることが冊封を受けることを意味していたため、独自の年号を用いることは独立国家の証であった。
朝鮮[編集]
李氏朝鮮は1896年に「一世一元の制」を導入し、日本に併合される1910年まで存続した。
ウィキペディアの記述[編集]
ウィキペディア日本語版の記述には、「朝鮮独自の元号は少ない」などと事実を誤った記述もある(WP:元号一覧 (朝鮮))。
注[編集]
- ↑ 大化から白雉へ、初の改元伝える石碑に注目読売新聞,2019年5月23日
- ↑ 改元とそれに伴う法律改正について参議院法制局,