側用人
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側用人(そばようにん)とは、江戸幕府の役職のひとつである。ただし、この職はそれぞれの藩にも藩主直属の側近として存在した。
概要[編集]
側用人の主な役割は征夷大将軍の命令を老中に伝えたり、老中の意見を逆に将軍に伝えたりすることである。第5代将軍・徳川綱吉が将軍職に就任した翌年の天和元年(1681年)に牧野成貞を起用したことを起源にすると言われている。綱吉の時代に大老の堀田正俊が稲葉正休に暗殺される事件が発生すると、将軍の身柄を守るために側用人の立場はさらに上昇し、将軍と老中の連絡役として側用人は大いに権勢を振るうようになった。著名な柳沢吉保も綱吉の時代に側用人として抜擢され大老格を得た人物である。綱吉の死後、第6代将軍の徳川家宣、第7代将軍の徳川家継に側用人として仕えた間部詮房も老中格を得て権勢を振るった。
8代将軍の徳川吉宗は、側用人の弊害から、直属の側用人を任命せず、紀州藩時代の軽輩家臣を御用取次に取り立てた。
9代将軍の徳川家重の時代に、家重の言葉を解読できる大岡忠光が側用人となったが、あくまで言語不明瞭な家重の代弁者に徹し、長所を生かして権勢を振るうことはしなかった。
さらに第10代将軍・徳川家治の時代に側用人となって田沼時代と称される一時代を築き上げた田沼意次は側用人から初めて老中にも出世した人物である。
なお、側用人は大老や老中の支配下になく、あくまで将軍直属の役職であり、鎌倉幕府の内管領と似たポジションである。
江戸幕府の側用人[編集]
- 牧野成貞:1680年(延宝8年) - 1695年(元禄8年)
- 松平忠周:1685年(貞享2年) - 1690年(元禄3年)
- 喜多見重政:1686年(貞享3年) - 1689年(元禄2年)
- 太田資直:1686年(貞享3年)
- 宮原重清:1688年(貞享5年) - 1688年(元禄元年)
- 牧野忠貴:1688年(元禄元年)
- 南部直政:1688年(元禄元年) - 1689年(元禄2年)
- 柳沢保明:1688年(元禄元年) - 1709年(宝永6年)
- 金森頼時:1689年(元禄2年)
- 相馬昌胤:1689年(元禄2年) - 1690年(元禄3年)
- 畠山基玄:1689年(元禄2年) - 1691年(元禄4年)
- 酒井忠真:1693年(元禄6年)
- 松平輝貞:1694年(元禄7年) - 1709年(宝永6年)
- 松平信庸:1696年(元禄9年) - 1697年(元禄10年)
- 戸田忠時:1704年(宝永元年) - 1706年(宝永3年)
- 松平忠周:1705年(宝永2年) - 1709年(宝永6年)
- 間部詮房:1706年(宝永3年) - 1716年(正徳6年)
- 本多忠良:1710年(宝永7年) - 1716年(正徳6年)
- 石川総茂:1725年(享保10年) - 1733年(享保18年)
- 大岡忠光:1756年(宝暦6年) - 1760年(宝暦10年)
- 板倉勝清:1760年(宝暦10年) - 1767年(明和4年)
- 田沼意次:1767年(明和4年) - 不明
- 水野忠友:1777年(安永6年) - 1780年(天明元年)
- 松平信明:1788年(天明8年)
- 本多忠籌:1788年(天明8年) - 1790年(寛政2年)
- 戸田氏教:1790年(寛政2年)
- 水野忠成:1812年(文化9年) - 1818年(文化14年)
- 田沼意正:1825年(文政8年) - 1834年(天保5年)
- 堀親寚:1841年(天保12年) - 1845年(弘化2年)
- 水野忠寛:1859年(安政6年) - 1862年(文久2年)