前田利家
前田利家 まえだ としいえ | |||||||||||||||||||||
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前田利家(まえだとしいえ、1538年1月15日-1599年4月27日)は、加賀国の戦国武将。徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家と共に五大老の1人。
生涯[編集]
1538年1月、尾張国で出生。幼少期は派手好きで、織田信長のうつけのような性格より少しマイルドになったぐらいで、当時は「歌舞伎者」と言われた[注 2]。
1551年のある日、織田信長の家臣になる。1556年、織田信行(信勝)による信長打倒作戦で信長方につき、初陣を果たす(稲尾の戦い)。そして1558年、利家はまつと結婚した。結婚した当時、秀吉とは同じ織田家家臣、尾張出身であった為近所同士であった。
1559年、まつから受け取った笄を信長が最も信頼していた僧侶、拾阿弥に盗まれたため利家は彼を殺した。しかし信長に追放命令を受け、信長の家臣を辞職した。
謹慎中の1560年、桶狭間の戦いに無断参戦したが謹慎は解かれなかった。翌年の1561年、斎藤龍興軍と信長の軍が衝突する(森部の戦い)。ここで織田軍は足立六兵衛など龍興軍有力武将に苦戦する。しかしここでも利家は無断参戦し、足立六兵衛の首を取った。この事が気に入られ謹慎を解かれ再び信長の家臣になり、後に信長は長兄利久に利家への相続を命じ、前田家に干渉した。
1581年、柴田勝家に与力として随行し能登国を攻撃、ここでも利家は武功を挙げ、約20万石の能登領を自国とした。1582年に信長が本能寺の変で死去、利家は秀吉に服従した。しかし1583年の賤ヶ岳の戦いは一時勝家陣営についた(その後裏切った)。その後も秀吉の元で活動し、1584年に隙をつき佐々成政が謀反を起こし利家領を攻撃した(末森城の戦い)。利家の家臣、奥村長福はそのまま親末森城にて籠城戦をしていたが、利家は成政を背後から攻撃してこの戦いに勝利した。この事などが気に入られ利家の嫡子・前田利長が越中国の4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増され、前田一族で76万5千石となる。文禄4年(1595年)、蒲生騒動により越中の残る新川郡をも利長に加増、上杉家から郡内の諸城を引き継いだ[1]。前田家は越中を一円領有し(能登と加賀には他領あり)、前田の総石高は83万石余に達した。
1599年、利家、がんで死去。享年61。その後は徳川家康が加賀・能登を狙ったが、まつが関ヶ原の戦い後まで人質になった事で嫡男・利長は徳川に付き改易、減封を逃れたが、次男・利政は徳川への低姿勢に反発し、関ヶ原戦後に改易された。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
脚注[編集]
- 注
- 出典
- ↑ 上杉家への代替地は東蒲原。(『管窺武鑑』上杉博物館『国宝 上杉家文書』など)