家忠日記

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家忠日記(いえただにっき)とは、徳川家康に仕えた戦国武将である三河国の国衆・額田郡深溝城主の松平家忠日記である。現在において織田信長豊臣秀吉・徳川家康・武田勝頼などの軍事動向などを知るのに非常に貴重な資料として評価されている。

概要[編集]

Wikipedia日本語版の松平家忠の記事に家忠日記の項があるが、これは間違いだらけなので信用しないで欲しい。

まず、この日記の書き始めは永禄11年(1568年)正月1日であり、恐らく家忠がこの日に14歳で元服を迎えたので書き始めたのではないかと見られている。以後、家忠は慶長5年(1600年)8月1日に関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦い石田三成に攻められて戦死するまでの33年間、日記を書き続けた。

ただし、現在に伝えられているのは天正元年(1573年)7月の3日分と、天正5年(1577年)10月16日から文禄3年(1594年)9月に至る18年分に、年月日が不詳の断簡が6丁ほど存在しているのみである。家忠が日記を起筆してから数年分、並びに末尾の数年分に関しては、家忠の長男・忠利の子・忠房肥前国島原藩主の時代である寛文年間に整理保存に尽力したものの、その時には既に散逸していたようである。

家忠日記の原本はその後、深溝松平家に長く秘蔵されたが、江戸幕府が修史事業を行う際にこの日記は非常に貴重であるとして利用された。そして享和4年(1804年)2月、当時の征夷大将軍徳川家斉に原本が上覧されて「珍敷品に候間大切にいたし可差置」との内意をもって当時の島原藩主・松平忠馮に返却された。恐らくこの時に日記の写本が作成されて江戸幕府の書庫に収められた、と推測されている。

明治時代になってもこの日記は学会から注目され、明治23年(1890年)に『家忠日記考』(史学学会の雑誌)に、その史料的価値が紹介され、明治30年(1897年)に翻刻本『文科大学史誌叢書家忠日記』が刊行された。昭和42年(1967年)に『濱史料大成家忠日記』全2巻が刊行され、昭和54年(1979年)には『増補濱史料大成家忠日記』全1巻が再刊された。

この間、深溝松平家に伝えられてきた日記の原本は、平成17年(2005年)に駒澤大学図書館所蔵となり、ここに貴重図書として島原藩で作成された写本2部と共に保管されている。

この日記はその日の出来事を簡潔に記しているだけで、後は天気のことなどを書いているのみである。家忠自身の感想というものはほとんど存在しない。また、現存しているものでも個所に欠損が目立つところが多い。

また、家忠自身による日付や記述の間違いなどはおよそ300箇所を数えるとされる。

日記の内容[編集]

「」は欠損を意味する。月日不詳の場合は「月日不詳」、日付不詳の場合は「日付不詳」とする。月日は旧暦。記述なしは、この日は空白を意味する。

元亀4年(1573年)7月[編集]

  • この年かどうか不明だが、『一大ワウ「」ミカンノカワ、一フクリウ、一ヨセ煎、等分各』とある。月日不詳。
  • 日付不詳 - 小笠砦へ互いに1日交替の番に行った。西郷孫九郎家員と交替した。相番は戸田孫六郎左衛門尉康長
  • 7月14日 - 掛川「」「」寺迄。
  • 7月15日 - 鷹「」。

天正5年(1577年)10月[編集]

  • 日付不詳 - 「」を叩、「」御注進候。
  • 10月17日 - 日坂方面へ鶉突きに出掛けた。
  • 10月18日 - 日坂方面へ鶉突きに出掛けた。
  • 10月19日 - 西郷方面へ鶉突きに出掛けた。
  • 10月20日 - 武田勝頼が小山の城より大井川を越えて引き上げた。
  • 10月21日 - 掛川より浜松まで三河の国衆が帰陣した。徳川信康は岡崎へ帰られた。
  • 10月22日 - 浜松城の普請をした。家康が馬伏塚より浜松へ御帰陣された。
  • 10月23日 - 同じく普請をした。
  • 10月24日 - 同じく普請をした。家康が国衆に振舞をなされた。
  • 10月25日 - 敵が大井川方面へ廻ったそうだ、普請をした。
  • 10月26日 - 普請をした。各国衆が三河へ帰られた。自分の担当分の普請ができた。
  • 10月27日 - 普請をした。
  • 日付不詳 - 普請ができたので「」。

天正5年(1577年)11月[編集]

  • 11月1日 - 水野藤次郎忠分の所から飛脚が来た。
  • 11月2日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 11月3日 - 鷹狩に出掛けた。上村出羽守家存が小者を成敗しようとして反抗されて傷を負われた。
  • 11月4日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 11月5日 - 会下にて説法があった、上村出羽守家存が死なれた。
  • 11月6日 - 説法があった。
  • 11月7日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 11月8日 - 吉田の酒井忠次の所へ人を行かせた。
  • 11月9日 - 永良郷へ鷹狩に出掛けた。
  • 11月10日 - 長良の長池で白縄漁をした。鯉を33本取った。
  • 11月11日 - 深溝に帰った。
  • 11月12日 - 雪が降った。
  • 11月13日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 11月14日 - 緒川より若人が来られた。
  • 11月15日 - 此の月14、15日夜頃より彗星が出現した。岡崎へ行った。
  • 11月16日 - 緒川の水野藤次郎忠分殿より、家中へ「」。会下にて説法があった。
  • 11月19日 - 雪が降った。
  • 11月20日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 11月21日 - 会下へ参った。
  • 11月22日 - 雨が降った。
  • 11月23日 - 鷹部屋を作った。
  • 11月24日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 11月25日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 11月26日 - 鷹狩に出掛けた。会下にて説法があった。
  • 11月27日 - 江湖僧衆へ振舞をした。
  • 11月28日 - 信康の家見に岡崎へ行った。
  • 11月晦日 - 岡崎に逗留した。六供の三城坊と榊原七郎右衛門清政の所へ行った。

天正5年(1577年)12月[編集]

  • 12月1日 - 信康が国衆に会われた。
  • 12月2日 - 深溝に帰った。
  • 12月3日 - 「」。
  • 12月4日から9日まで欠損している。
  • 12月10日 - 深溝海谷の山で江湖僧が薪を集め門並で焼いた。僧衆が会下まで届けられた。
  • 12月11日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 12月12日 - 岡崎の一世が深溝に来られた。
  • 12月13日 - 西郡五井の松平太郎左衛門景忠(松平景忠)の所へ礼に行った。
  • 12月14日 - 雨降。深溝に帰った。
  • 12月15日 - 会下に参った。
  • 12月16日 - 家中衆水鳥一いたしの「」。
  • 日付不詳 - 「」由候にて、家康「」越候、岡崎へ越候、「」。
  • 日付不詳 - 「」人を遣わした。
  • 12月26日まで欠損している。
  • 12月27日 - 竹谷の松平備後守清善(松平清善)の所へ借銭のために人を遣わした。
  • 12月28日 - 会下に参った。
  • 12月29日 - 吉田へ借銭のため納所に人を遣わした。
  • 12月晦日 - 岡崎へ歳暮のため人を遣わした。

天正6年(1578年)1月[編集]

  • 1月1日 - 夜雨降。西の大風が吹いた。秋の台風ほどではない。
  • 1月2日 - 夜雨降。夜のうちに、日帰りの予定で浜松へ礼に「」。
  • 1月3日 - 風が吹いて、船渡しが無「」留候。家康より鷹雁「」。
  • 1月4日 - 夜雨降。深溝へ帰った。信康「」鷹狩に御越しになった。「」。
  • 1月5日 - 雨降。深溝へ帰った。「」。
  • 1月6日 - 信康「」。
  • 1月7日 - 会下「」越候。
  • 1月8日 - 僧「」。
  • 1月9日 - 信康「」。
  • 1月10日 - 会下「」。
  • 1月11日 - 雨ふり夜は雪。岡崎屋敷「」。
  • 1月12日 - 松平伊豆守信一(松平信一)が来られた。「」。
  • 1月13日 - 夜雨降。松平伊豆守信一の所に振舞へ「」。
  • 1月14日 - 夜雨降。岡崎城うたいそ「」。
  • 1月15日 - 爆竹に参加した。
  • 1月16日 - 御家門様が、おいでになるということで、家康「」御越候。
  • 1月17日 - 深溝より門木が届いた。
  • 1月18日 - 屋敷の普請をした。深溝へ帰った。
  • 1月19日 - 雨降。
  • 1月20日 - 岡崎へ行った。
  • 1月21日 - 御家門様が岡崎へ「」。
  • 日付不詳 - 御家門様「」。
  • 以後、この月は欠損している。

天正6年(1578年)2月[編集]

  • 1月下旬に続いて2月も初旬が欠損している。
  • 2月4日 - よいは雨。大雪が降り三尺積もった。信康の御母様(築山殿)より音信があった。
  • 2月5日、2月6日は空白で記述が無い。
  • 2月7日 - 鷹狩に出かけた。
  • 2月8日 - 雨が降った。
  • 2月9日 - 京都愛宕山の山伏が来た。信康岡崎の「」長老「」れ候。
  • 2月10日 - 深溝へ信康が参られた。
  • 2月11日 - 新城普請の触れがあって「」へ越候。
  • 2月12日 - 会下に参った。
  • 2月13日 - 岡崎へ参上した。なお、13日と書いているが、1の部分は欠損している。
  • 日付不詳 - 雨が降った。新城の普請をしたが浜松より陣触れが来て普請を中止した。自領永良郷の者が徳川家の御領地家武山へ入ったので「」、解死人を出すよう申し入「」。隣郷の室家武の者も同様である。
  • 2月16日 - 記述なし。
  • 2月17日 - 永良郷の騒動にお許しが出た。
  • 2月18日 - 浜松への参陣が延びたので、新城普請「」。
  • 2月19日 - 新城の普請をした。
  • 2月20日 - 同じく普請をした。
  • 2月21日 - 同じく普請をした。
  • 2月22日 - 雨降。各国衆へ平岩七之助親吉(平岩親吉)の所にて振舞があった。
  • 2月23日 - 普請。各国衆は朝食を石川伯耆守数正(石川数正)の所で夕食を酒井与四郎重忠(酒井重忠)の所で呼ばれた。
  • 2月24日 - 雨降。松平上野介康忠(松平康忠)を振舞った。
  • 2月25日 - 雨降。
  • 2月26日 - 雨降。長沢松平家の親類衆を振舞った。
  • 2月27日 - 雨降。これまで夜となく昼となく続けて雨が降っている。
  • 2月28日 - 雨降。午後2時頃に天気が良くなった。午後4時頃地震があった。
  • 2月晦日 - 新城の普請をした。

天正6年(1578年)3月[編集]

  • 3月1日 - 同じく普請をした。浜松より陣触れがあって普請を中止した。
  • 3月2日 - 雨降。
  • 3月3日 - 「」松より陣触れが来て深溝へ行った。
  • 3月4日 - 「」五左衛門(恐らく松平親定、通称五左衛門尉)の所で、祖父大炊助好景(松平好景)の23回忌法要があった。
  • 3月5日 - 二川まで出陣した。
  • 3月6日 - 浜松まで到着した。
  • 3月7日 - 掛川へ出陣した。
  • 3月8日 - 掛川より進発して大井川の川端に陣取った。
  • 3月9日 - 駿河の田中城に攻撃をかけ、外廓を破り、我等へ向かって来た敵2人を討「」、家中の佐野孫助と行家彦十郎が討ち取った。
  • 3月10日 - 雨降。牧野原城まで帰陣した。
  • 3月11日 - 牧野原城の普請をした。
  • 3月12日 - 同じく普請をした。
  • 3月13日 - 敵の砦の今城へ家康の旗本と国衆は大将だけで攻撃をかけた。
  • 3月14日 - 牧野原城の普請をした。
  • 3月15日 - 雨降夜より。同じく普請をした。
  • 3月16日 - 雨降。同じく普請をした。
  • 3月17日 - 同じく普請をした。
  • 3月18日 - 牧野原城の普請が出来上がって浜松まで帰った。
  • 3月19日 - 浜松より日通りにて岡崎へ帰った。
  • 3月20日 - 記述なし。
  • 3月21日 - 雨降夜より。
  • 3月22日 - 記述なし。
  • 3月23日 - 2月の止めより新城普請の遣り残しがあったが、今日普請をし終えた。
  • 3月24日 - 中島へ行った。茶会をしに。
  • 3月25日 - 雨降夜より。鷹狩に出かけた。
  • 3月26日 - 記述なし。
  • 3月27日 - 中島の崇福寺にて振舞があった。
  • 3月28日 - 夜より雨降り。
  • 3月29日 - 記述なし。
  • 3月晦日 - 中島より岡崎へ帰った。

天正6年(1578年)4月[編集]

  • 4月1日 - 岡崎城へ出向いた。
  • 4月2日 - 信康の小姓衆方にて振舞があった。
  • 4月3日 - 夜より雨降り。
  • 4月4日 - 記述なし。
  • 4月5日 - 夜雨降。
  • 4月6日 - 深溝へ行った。
  • 4月7日 - 会下へ参った。
  • 4月8日 - 同じく会下へ参った。
  • 4月9日 - 竹谷の松平玄蕃允清宗の所へ礼に行った。
  • 4月10日 - 記述なし。
  • 4月11日 - 「」降。
  • 4月12日 - 日待をした。会下へ振舞をした。
  • 4月13日 - 岡崎へ帰った。
  • 4月14日 - 記述なし。
  • 4月15日 - 六供の三城坊に出掛けた。
  • 4月16日 - 記述なし。
  • 4月17日 - 日通りにて、信康が浜松へ礼に御越しになった。
  • 4月18日 - 日通りにて、信康が浜松より岡崎へ帰られた。
  • 4月19日 - 記述なし。
  • 4月20日 - 記述なし。
  • 4月21日 - 猿楽衆が来て囃子があった。
  • 4月22日 - 雨降。
  • 4月23日 - 雨降。猿楽衆が来て拍子をとった。
  • 4月24日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 日付不詳 - 雨降り。午前6時まで。
  • 以後、4月分は全て欠損している。

天正6年(1578年)5月[編集]

  • 5月1日 - 城へ出仕する件は、端午の節供が近日であるので、無用であると平岩七之助親吉よりの申し越しがあった。
  • 5月2日 - 雨が降った。篝。
  • 5月3日 - 同じく雨降り。
  • 5月4日 - 同じく雨降り。山崎の水野藤次郎忠分殿へ音信をした。
  • 5月5日 - 同じく雨降り。城へ出仕した。吾らの所へ鵜殿八郎三郎長信(鵜殿長信。家忠の妹婿)と松平信一が来られて拍子をとった。
  • 5月6日 - 岡崎城へ越前の幸若太夫の従兄弟幸春太夫が来た。ワキ方は親で子供の年は10才だ。各国衆が来て語り物を聞いた、舞は二番で高館と十番斬であった。
  • 5月7日? - 松平太郎左衛門景忠(松平景忠)殿が来られて拍子をとった。「」。安芸の毛利勢が美作へ軍勢を八万「」出、山中鹿之助の守る上月城を厳しく攻めつけた。後詰のため「」御家門様が御出馬されるとのことだ。
  • 5月8日、5月9日は欠損している。
  • 5月10日? - 晩より雨降り。遠州牧野原城番松平甚太郎家忠(東条松平家の第3代当主。深溝松平家忠の妹婿)の家来都筑助太夫が来られた。
  • 5月11日 - 夜も雨降り。南城坊による祈祷があった。正午頃地震があった。吉田の酒井左衛門尉忠次(酒井忠次)の所より今日の内に御能があるとの知らせが来た。
  • 5月12日 - 夜も雨降り。
  • 5月13日 - 夜も大雨が降って永良の堤防が七、八間決壊した。
  • 5月14日 - 深溝へ行った。
  • 5月15日 - 日待をした。雨降り、会下に参った。
  • 5月16日 - 記述なし。
  • 5月17日 - 雨降り。
  • 5月18日 - 会下に参った。
  • 5月19日 - 夜、雨降り。
  • 5月20日 - 記述なし。
  • 5月21日 - 会下へ参った。雨降り。
  • 5月22日 - 夜も雨降り。
  • 5月23日 - 昼まで雨降り。岡崎へ帰った。
  • 5月24日 - 松平太郎左衛門景忠の所へ振舞と拍子とりがあって行った。
  • 5月25日 - 記述なし。
  • 5月26日 - 信康が桐山へ山桃見物に来られた。
  • 5月27日 - 記述なし。
  • 5月28日 - 夕立があった。家康の普請奉行天野清兵衛家次(天野家次)に振舞をした。
  • 5月29日 - 同じく夕立があった。浜松へ人改めのための手形を押した文書を持って行かせた。大草の南城坊浄土寺から石船が届いた。

天正6年(1578年)6月[編集]

  • 6月1日 - 城へ出仕した。夜より雨が降った。鵜殿八郎三郎長信の所へ行った。
  • 6月2日 - 雨降り。岡崎城の小姓衆が来られた。松平太郎左衛門景忠の所へ振舞があって行った。
  • 6月3日 - 雨降り。
  • 6月4日 - 雨降り。
  • 6月5日 - 蔵を作らせた。夕立があった。松平伊豆守信一の所へ行った。
  • 6月6日 - 信康の鷹匠成瀬藤八郎国次成瀬国次)が来られた。
  • 6月7日 - 和屋新八が松平紀伊守家忠(形原松平家第5代当主。深溝家忠の従兄)に斬られて我等の所まで逃げてきた。
  • 6月8日 - 深溝の会下で法事があって行った。
  • 6月9日 - 永良へ堤防の築造に行った。
  • 6月10日 - 堤防の築造をした。
  • 6月11日 - 同じく堤防の築造をした。
  • 6月12日 - 中島の堤防の築造をした。
  • 6月13日 - 同じく堤防の築造をした。
  • 6月14日 - 同じく堤防の築造をした。
  • 6月15日 - 同じく堤防の築造をした。
  • 6月16日 - 夕立があった。岡崎へ帰った。永井、羽角を通って土呂へ寄った。
  • 6月17日 - 記述なし。
  • 6月18日 - 水野惣兵衛忠重(水野忠重)殿を振舞った。
  • 6月19日 - 松平伊豆守信一殿を振舞った。
  • 6月20日 - 知行地の年貢計算をした。
  • 6月21日 - 同じく計算をした。
  • 6月22日 - 酒井忠次が岡崎へ来られた。
  • 6月23日 - 酒井忠次の所へ行った。浜松より来る1日に普請に来るようにとの連絡が来た。水野忠重殿が我等の所へ来られた。
  • 6月24日 - 山崎の水野藤次郎忠分殿より女房衆に音信が届けられた。
  • 6月25日から6月27日まで記述なし。
  • 6月28日 - 久志本法安の所へ振舞があって行った。小美へ川狩に行った。「」頃に1時間夕立がはらはらと降った。
  • 6月29日 - 記述なし。
  • 6月30日 - 浜松の普請のために岡崎より深溝まで行った。

天正6年(1578年)7月[編集]

  • 7月1日 - 二川まで到着した。
  • 7月2日 - 遠州浜松まで到着した。
  • 7月3日 - 横須賀砦場まで到着した。
  • 7月4日 - 砦の普請をした。家康より瓜を戴いた。
  • 7月5日 - 同じく普請をした。
  • 7月6日 - 同じく普請をした。尾崎金三郎が槍鉋で腿を突いた。
  • 7月7日 - 同じく普請をした。上方にいる山岡半左衛門忠兼(山岡忠兼)の使いが帰られた。播磨の神吉城を上介様(織田信忠秋田城介が受領名)が御攻めになって、滝川一益美濃三人衆明智光秀、丹羽五郎左衛門長秀(丹羽長秀)も一緒に攻められた。こちら側の衆は負傷者が多く出て滝川一益殿も負傷した。
  • 7月8日 - 同じく普請をした。午後6時頃より雨が降った。
  • 7月9日 - 雨降り。大風が午後6時頃から吹いた。同じく普請をした。家康より振舞があり、本多豊後守広孝(本多広孝)殿よりも振舞があった。
  • 7月10日 - 午後8時頃まで雨が降り、午後4時頃まで吹いた。同じく普請をした。
  • 7月11日 - 同じく普請をした。
  • 7月12日 - 同じく普請をした。
  • 7月13日 - 同じく普請をした。13日の午後6時頃より雨降り。
  • 7月14日 - 同じく普請をした。午後8時頃まで雨が降った。
  • 7月15日 - 横須賀砦の普請ができた。
  • 7月16日 - 横須賀より吉田まで帰った。
  • 7月17日 - 深溝まで帰った。
  • 7月18日 - 岡崎へ帰った。
  • 7月19日 - 記述なし。
  • 7月20日 - 越前鶴賀の舞々、幸鶴太夫が来て舞った。
  • 7月21日 - 夜雨する。正午頃夕立があった。
  • 7月22日 - 午後2時頃より雨降。
  • 7月23日 - 夜も雨降。雨降り、正午頃より午後2時頃に雨間があった。
  • 7月24日 - 夜大雨ふる。午後8時頃まで雨降り。
  • 7月25日 - 記述なし。
  • 7月26日 - 午後8時から10時までの間に夕立がはらはらとした。正午から2時の間で1時間程雨が降った。土呂の市の件は済んで28日の市より再開する。
  • 7月27日 - 午前10時頃より雨降り。
  • 7月28日 - 雨が降った。
  • 7月29日 - 午前10時頃まで雨降り、御屋敷に御祝言があった。二連木の戸田孫六郎康長(松平康長)の所へ嫁がれるとの事だ。見送りに山中まで参上した。

天正6年(1578年)8月[編集]

  • 8月1日 - 城へ出仕した。午前9時頃雨降り。
  • 8月2日 - 宵に雨降り。牧野原城々番のため深溝まで来た。
  • 8月3日 - 午前10時頃より雨降り。
  • 8月4日 - 昨日の午後8時頃より大雨となり、今日の正午頃まで降った。所々で川の出水があった。会下へ参った。
  • 8月5日 - 浜松へ日駆けにて行った。午前6時頃から8時頃まで雨降り。城へ出仕した。
  • 8月6日 - 雨が降った。松平玄蕃允清宗の所にて振舞があった。浜松より掛川の天然寺まで到着した。
  • 8月7日 - 午前4時頃より正午頃まで雨降り。西郷孫九郎家員に替わって牧野原城々番についた。松平甚太郎家忠の家中都筑助太夫の所で振舞があった。
  • 8月8日 - 松平甚太郎家忠の所に振舞があった。牧野原城の堀普請をした。
  • 8月9日 - 牧野新二郎康成(牧野康成)の所に振舞があった。午前2時頃より8時頃まで雨降り。昨日同様普請をした。
  • 8月10日 - 牧野原城の定番衆を振舞った。午前2時頃より10時頃まで雨降り。同じく普請をした。
  • 8月11日 - 午前6時頃より8時頃まで雨が降った。松平甚太郎家忠の小姓を振舞った。同じく普請をした。
  • 8月12日 - 夜雨降り。同じく普請をした。
  • 8月13日 - 雨降り。同じく普請をした。
  • 8月14日 - 午前4時頃より午後6時頃まで大雨降り。
  • 8月15日 - 普請をした。
  • 8月16日 - 駿河出相より乗馬2頭の出品があった。同じく普請をした。
  • 8月17日 - 同じく普請をした。城の定番衆を振舞った。
  • 8月18日 - 同じく普請をした。
  • 8月19日 - 午前8時頃より雨降り。駿河口へ出撃のため三河国衆が浜松まで来られた。同じく普請をした。
  • 8月20日 - 普請ができた。雨降り。
  • 8月21日 - 午後2時頃まで雨降り。家康と信康が小山城に軍を進められた。
  • 8月22日 - 西駿河の田中へ刈田のため出撃がなされた。我々騎馬隊は大谷へ偵察に出た。平岩七之助親吉の同心が負傷して来られた。
  • 8月23日 - 人足を色尾まで送った。平岩七之助親吉の同心を掛川まで送った。
  • 8月24日 - 同じく人足を色尾まで送った。南風が荒々しく吹いた。旗本より人留めの事の申し越しがあった。
  • 8月25日 - 午前8時頃雨降り。同じく人足を送った。小者1人を殺させた。牧野原城番を替わった。「」候へば陣中は無用之由被仰候。
  • 8月26日 - 午後10時頃まで雨降り。田中へ刈田に人を遣った。又午後4時頃より雨降り。
  • 8月27日 - 記述なし。
  • 8月28日 - 午前2時頃より雨降り。未明に牧野原城の外郭まで敵の騎馬隊が7、8騎やって来た。
  • 8月29日 - 家康より刈田で得た兵粮米を200俵戴いた。

天正6年(1578年)9月[編集]

  • 9月1日 - 「信康馬煩候て」(「」の文章は墨で塗り潰されている)兵粮米を取りに遣わした。
  • 9月2日 - 信康の馬が病気になり引いて来られた。
  • 9月3日 - 記述なし。
  • 9月4日 - 西駿河より家康が牧野原城まで帰陣なされた。牧野原城々番を二連木衆に替わった。牧野原城の市場普請をした。
  • 9月5日 - 同じく普請をした。家康よる鵜殿善六郎重長(鵜殿重長)を御使番にして岡崎在郷は無用であるとの仰せがもたらされた。
  • 9月6日 - 家康、信康が御帰陣になった。国衆は普請に当たった。牧野原城の定番衆は今城へ攻撃をかけた。
  • 9月7日 - 牧野原城の普請ができた。掛川まで帰陣した。
  • 9月8日 - 掛川より白須賀まで帰陣した。途中浜松城へ出仕した。正午頃雨降り。
  • 9月9日 - 白須賀より岡崎まで帰陣した。
  • 9月10日 - 鵜殿八郎三郎長信の所へ振舞があって行った。信康は田原へ鹿狩に行かれた。
  • 9月11日 - 祈祷があった。
  • 9月12日 - 御祝言の御祝で浜松より家康が来られた。松平太郎左衛門景忠殿を振舞った。
  • 9月13日 - 午後6時頃より雨が降った。家康が御屋敷へ出向かれた。松平太郎左衛門景忠の所にて振舞があった。
  • 9月14日 - 浜松へ家康が帰られた。
  • 9月15日 - 午後6時頃まで雨降り。深溝へ行った。
  • 9月16日 - 午後6時頃より雨降り。
  • 9月17日 - 雨降り。
  • 9月18日 - 午前4時頃まで雨降り。9月尽の連歌があった。発句・家忠「神かきや松も世々ふる草の露」
  • 9月19日 - 会下へ参った。深溝の鳥屋につみの鷹が留まった。
  • 9月20日 - 日待をした。吉田の酒井忠次の所へ人を行かせた。岡崎へ行くよう言って来られた。
  • 9月21日 - 岡崎へ帰った。
  • 9月22日 - 鵜殿長信、松平景忠が来られて点取之俳諧があった。午後8時頃に吉田の酒井忠次の所より、家康配下の各国衆の岡崎在郷の件については無用であるとの連絡が来た。
  • 9月23日 - 岡崎在郷のことについて、鵜殿長信、松平景忠と自分の3人の所から石川数正、平岩親吉の所へ使者を遣わして確認してみれば、早々に本領へ行くようにとの指示があった。
  • 9月24日 - 細工人が来て、母衣の芯を作らせた。松平景忠殿が来られて拍子をとった。
  • 9月25日 - 午前2時より雨降。石川数正、平岩親吉の所より本領へ行くようにとの連絡が来た。
  • 9月26日 - 午後6時頃まで雨降り。深溝へ女たちが引っ越した。我ら「」候。松平景忠が来られて俳諧があった。
  • 9月27日 - 深溝へ行った。人足改めが来た。深溝の鳥屋にてはいたかのかたへりが留まった。
  • 9月28日 - 午前2時頃、雨が降った。
  • 9月29日 - 記述なし。
  • 9月30日 - 酒井忠次、平岩親吉の所より、茶屋四郎次郎清延(茶屋清延)の助勢協力の事を連絡してきた。

天正6年(1578年)10月[編集]

  • 10月1日 - 会下へ参った。
  • 10月2日から10月4日まで記述なし。
  • 10月5日 - 午前2時頃より雨降り、午後6時頃まで。
  • 10月6日 - 岡崎在郷負担免除の御礼に、浜松へ松平康定(家忠の大叔父)が行った。
  • 10月7日 - 記述なし。
  • 10月8日 - 鶉突きに出かけた。
  • 10月9日 - 西風が吹いた。
  • 10月10「日」 - 記述なし。「日」の部分が欠損している。
  • 10月11日 - 西風が荒かった。
  • 10月12日 - 同じく西風が荒く吹いた。鶉が留まった。門木を引かせた。浜松の酒井忠次と二位法印如雪(家康の側近で僧侶)から、作岡の河合宗在より借財事の訴訟があって、訴訟を取り上げる旨の連絡があり早々に裁許をもらうようにとの連絡があった。
  • 10月13日 - 鶉突きに出かけた。
  • 10月14日 - 門木を引かせた。午前10時頃より雨降り。会下の東堂(角翁香麟)様が御越しになった。山崎から藤左衛門という人が来た。浜松へ河合宗在との訴訟裁許に松平康定を行かせた。
  • 10月15日 - 会下へ参った。鷹の消息を申し述べた。午前零時頃まで雨降り。
  • 10月16日 - 東条舞々が来て舞った。午前6時頃より雨降り。蔵を作らせた。
  • 10月17日 - 午前2時まで雨降り。御家門様が西条へ近日中に御成になるとのことで、酒井忠次の所より大工を雇いに来た。
  • 10月18日 - 午前4時頃まで雨降り。又午後6時頃雨降り。鷹狩に出かけた。
  • 10月19日 - 午前4時頃まで雨降り。西風が荒く吹いた。酒井忠次の所より、武田勝頼が出陣したとの連絡があった。点取俳諧があった。
  • 10月20日 - 点取り俳諧があった。
  • 10月21日 - 会下へ参った。午後8時頃より午前6時頃まで雨降り。
  • 10月22日 - 河合宗在との相論については、以前の調停のようにせよとの御内意を受けて松平康定が浜松より帰った。本多重次の所よりが35本届いた。鷹狩に出かけた。
  • 10月23日 - 午後8時頃より雨降り。鷹狩に出かけた。大坊に夜の点取俳諧があって行った。
  • 10月24日 - 午前10時頃まで雨降り。午後6時頃に武田勢が急遽出現したとのことで、酒井忠次の所より陣触れがあり明日25日に出陣せよとの連絡があった。
  • 10月25日 - 午前4時頃に出発して浜松へ日通りにて行った。松平清宗の所で振舞があり、それから城へ出仕した。
  • 10月26日 - 二位法印如雪と浜松城の小姓衆が我等の所へ来られた。
  • 10月27日 - 午前8時頃より午後2時頃まで雨降り。信康が浜松まで到着なされた。
  • 10月28日 - 信康に出仕した。酒井忠次の所にも行った。午後4時頃に大きな地震があった。50年以来の大地震ということである。1時間ほど又時を同じくして少し揺れた。午後8時頃又地震があった。牧野原城より武田勢が山を越えたという注進があった(山の名は書かれていないが、牧野原城の場所から推測するに宇津谷峠か)。
  • 10月晦日 - 夜、地震の揺れが2度あり、時が解った。武田勢が大井川を越えたという牧野原城よりの注進があって各国衆は見付まで出陣した。

天正6年(1578年)11月[編集]

  • 11月1日 - 見付まで。午後4時頃地震があった。
  • 11月2日 - 午後4時頃地震の揺れがあった。武田勢は小山城及び相良方面へ移ったので、家康と信康は馬伏塚へ陣取った。諸々の軍勢は柴原まで出陣した。
  • 11月3日 - 午後6時頃地震の揺れがあった。武田勝頼が横須賀城の向かいまで攻めてきたので、家康の軍は総兵力で横須賀の際にて備えた。勝頼は高天神城まで撤退した。味方も本陣を引いた。鹿毛の馬を鵜殿重長に渡した。
  • 11月4日 - 夜、地震の揺れがあった。敵の斥候が横須賀城へ攻撃を仕掛けた。こちらの軍勢も「」。家康は小笠砦へ行かれた。
  • 11月5日 - 家「」振舞被成候「」ゆる。
  • 11月6日 - 信康が山鷹狩へ出かけられた。
  • 11月7日 - 午前4時より雨降り。酒井忠次の所より、雨がやみ次第に家康より着到を御付け戴ける旨連絡が来た。尾張国山崎の水野忠分殿より飛脚が寄越されて、摂津国荒木村重が信長公に反旗を翻したとの連絡が来た。音信物として鱈2本が届いた。平岩親吉の所へ遣わした。
  • 11月8日 - 午前6時頃より雨降り。風吹への三日番の決めに西郷家員が来られて、10日に番に行く籤に当たった。松平真乗の足助衆と交替する。安部三助殿と鵜殿重長が来た。
  • 11月9日 - 夜雨が降った。酒井忠次の所へ行った。
  • 11月10日 - 風吹へ番に行った。松平清宗の所へ振舞があり。
  • 11月11日 - 雨が夜降った。家康より着到付が来た。侍85人、中間126人、鉄砲15ハリ、弓6張、鑓25本有り。鑓使い3人。
  • 11月12日 - 敵の援軍が高天神城から撤退した。本多康重の所にて拍子とりがあった。松平清宗同心である松平金左衛門の所にて振舞があった。
  • 11月13日 - 午前4時頃より午後6時頃まで雨降り。阿部正勝の所から掛川へ移るようにとの連絡があった。
  • 11月14日 - 風吹から掛川の益田まで行った。敵が大井川を越えたとの牧野原城よりの注進があった。
  • 11月15日 - 信康が各国衆に鷹狩の雁を振舞なされた。敵が軍勢を集めて昨日大井川を渡り、その一部が「」島に陣取ったと注進があった。「」川はた。
  • 11月16日 - 「」青島に陣取った。
  • 11月17日 - 敵が島田まで三備で出撃して来たそうだ。
  • 11月18日 - 記述なし。
  • 11月19日 - 敵が青島より田中まで引き取った。
  • 11月20日、11月21日は記述なし。
  • 11月22日 - 午前8時頃より午後6時頃まで雨降り。
  • 11月23日 - 記述なし。
  • 11月24日 - 親類衆のみんなに振舞をした。
  • 11月25日 - 夜より雨降り。
  • 11月26日 - 夜まで雨降り。
  • 11月27日 - 初雪が降った。
  • 11月28日 - 池野有助が来た。
  • 11月29日 - 午後4時頃地震の揺れがあった。松平信一が来られた。振舞をした。
  • 11月30日 - 牧野原城に鉄砲衆20人を配した。敵将・武田勝頼が25日に引いたとのことで各々は浜松まで引いた。信康は三河へと通られた。

天正6年(1578年)12月[編集]

  • 12月1日 - 小寒に入った。白須賀まで引き上げた。
  • 12月2日 - が降った道中筋の大岩まで。深溝まで来た。家康は岡崎へ来られた。
  • 12月3日 - 会下へ参った。平岩親吉の所「」。
  • 12月4日 - 会下へ参った。鷹狩に出かけた。
  • 12月5日 - 鷹狩に出かけた。
  • 12月6日 - 午前6時頃より午後4時頃まで雨降り。牧野原城に配した鉄砲衆が帰って来た。
  • 12月7日 - 門の地形を引いた。雪が降った。家中の酒井宗右衛門の所に振舞があった。伊勢村山の掃部助の所より御師が来た。
  • 12月8日 - 永良へ鷹狩に行った。
  • 12月9日 - 旗指物を仕立てて、家中の侍衆に配った。
  • 12月10日 - 長池にて白縄を引かせて漁をした。風が吹いて1匹も捕れなかった。深溝へ帰った。
  • 12月11日 - 夜、雪が降った。門を建てた。
  • 12月12日 - 島へ人を行かせた。去る8日に織田信長公が摂津の荒木村重の城・有岡城を御攻めになった。水野忠分殿が討ち死にされたとの連絡が来たので、人を遣わした。
  • 12月13日 - 水野忠分殿の討死は間違いないとの連絡があった。
  • 12月14日と12月15日は記述なし。
  • 12月16日 - 夜中より雨降り。午後2時頃まで。夜薄雪が降った。
  • 12月17日 - 水野忠分殿の弔問に人を行かせた。岡崎の満性寺一世が来られた。
  • 12月18日、12月19日は記述なし。
  • 12月20日 - 岡崎の日町に行った。一世の所に留まった。
  • 12月21日 - 町へ出かけた。
  • 12月22日 - 深溝へ帰った。
  • 12月23日 - 午前6時頃より雪が降りだし、10時頃より雨になった。
  • 12月24日、12月25日は記述なし。
  • 12月26日 - 犬法師(深溝松平家の一族で家忠の弟の松平玄成とされる説がある)が浜松へ行った。家康より兵粮を100粮くだされるとの連絡が来た。
  • 12月27日 - 水野忠分殿の形見の刀一腰が届いた。山崎へ歳暮の為に人を遣わした。吉田へも借銭を済ましに人を行かせた。
  • 12月28日 - 岡崎へ歳暮に行った。松平伊長(家忠の弟)の祝言があった。松平信一の所よりの輿入れ。午後8時頃より雨降り。
  • 12月晦日 - 雨降り。松平伊長の所へ食事があって行った。

天正7年(1579年)1月[編集]

  • 1月1日 - 家中衆が年頭の礼に来た。
  • 1月2日 - 夜通りで浜松へ年頭の礼の為に下った。夕方に出仕し謡初があった。立春。
  • 1月3日 - 松平清宗の所に振舞があった。浜松の家康家中衆へ礼に歩いて廻り、新居まで帰った。
  • 1月4日 - 吉田の酒井忠次の所へ礼に寄って深溝まで帰った。酒井忠次は安土城の織田信長公の下へ御使いに行かれた。
  • 1月5日 - 出家衆が礼に来られた。会下の東堂様に振舞をした。
  • 1月6日 - 午後8時頃、疾風が吹き下ろして霰が降った。
  • 1月7日 - 丹羽隼人が来た。
  • 1月8日 - 松平康定の所に振舞があった。
  • 1月9日 - 岡崎より久志本法安が来られた。午後2時頃から雨が降った。
  • 1月10日 - 午前6時頃まで雨降り。日待をした。
  • 1月11日 - 午前6時頃に地震があった。祈祷があった。夜雪が降った。岡崎の満性寺一世が来られて京の升屋も来て拍子とりがあった。午後8時頃御末間にて火事が発生したけれども消し止めた。
  • 1月12日 - 松平喜平(家忠の一族)の所に振舞があった。午後4時頃地震の揺れがあった。
  • 1月13日 - 佳例の連歌があった。午後8時頃より雨降り。発句。又八「春いく代梅かかふかき宿松」
  • 1月14日 - 午前6時頃まで雨降り。松平親定の所に振舞があった。岡崎の信康へ御礼と謡初に行った。
  • 1月15日 - 爆竹に参加した。岡崎の信康家中衆へ、年頭の礼に歩いて廻ってから深溝へ帰った。
  • 1月16日 - 記述なし。
  • 1月17日 - 夜雪だった。松平清宗が礼に来られた。正午頃より午後8時頃まで雨降り。
  • 1月18日 - 会下に振舞があった。雪降り。
  • 1月19日 - 家康が岡崎へ御越しになったので岡崎へ行った。島へ人を行かせた。
  • 1月20日 - 家康が吉良へ御鷹狩のために御越しになった。
  • 1月21日 - 大坊に振舞があった。正午頃より夜まで雨降り。
  • 1月22日 - 仮亭を作らせた。
  • 1月23日 - 浜松より犬法師が来た。
  • 1月24日、1月25日は記述なし。
  • 1月26日 - 1尺程度雪が降った。
  • 1月27日 - 吉良の大塚へ家康の御鷹狩の見舞に行った。
  • 1月28日 - 鵜殿長信殿が礼に来られた。
  • 1月29日 - 家康が吉良より深溝へ御帰りになったので、宇谷にて御酒迎い申し上げた。鷹狩の雁を下された。
  • 1月晦日 - 記述なし。

天正7年(1579年)2月[編集]

  • 2月1「日」 - 「」松平勘解由「」。
  • 2月2日 - 記述なし。
  • 2月3日 - 浜松へ鷹狩の雁を下された御礼に使者を行かせた。点取の俳諧があった。
  • 2月4日 - 記述なし。
  • 2月5日 - 点取の俳諧があった。
  • 2月6日 - 小笠原広忠殿が来られた。3日に浜松へ使いにやった者が帰って来た。
  • 2月7日 - 記述なし。
  • 2月8日 - 松平康定の所に俳諧の振舞があった。夜より雨降り。
  • 2月9日 - 雨降り。浜松より家康の印判状による指示で、来る18日に浜松普請に来るようにとの連絡があった。
  • 2月10日 - 記述なし。
  • 2月11日 - 明方に夜雨があり、午前零時頃地震があった。同日午後8時頃に雨降り。
  • 2月12日 - 犬法師が浜松へ行った。
  • 2月13日 - 夜、雪と霰が降った。
  • 2月14日 - 夜雨が降った。岡崎の鷹匠伊東殿が御越しになった。清田も来た。
  • 「」 - 会下へ参った。
  • 「」 - 家康より下された鷹狩の雁を振舞った。
  • 2月17日 - 伊東殿と清田が岡崎へ帰られた。
  • 2月18日 - 浜名まで出陣した。夜より雨降り。
  • 2月19日 - 午後8時頃迄雨降。浜松まで行った。城へ出仕した。
  • 2月20日 - 彼岸に入る。
  • 2月21日 - 午後6時頃より雨降。本多重次の構の普請をした。
  • 2月22日 - 午後4時頃迄雨降。家康が鷹狩の鶴振舞を各国衆になされた。又夕食は二位法印如雪方へ行った。
  • 2月23日 - 同じく普請をした。
  • 2月24日 - 同じく普請をした。内藤正成の所に振舞があった。
  • 2月25日 - 同じく普請をした。松平清宗の所に振舞があった。
  • 2月26日 - 同じく普請をした。天野家次の所へ振舞があり。午前10時頃雨降り。正午頃大きな地震で揺れた。
  • 2月27日 - 同じく普請をした。
  • 2月28日 - 午前8時頃より雨降。同じく普請をした。本多重次の所に振舞があった。
  • 2月晦日 - 午後6時頃迄雨降り。本多忠勝の所に振舞があった。

天正7年(1579年)3月[編集]

  • 3月1日 - 同じく普請をした。
  • 「」 - 同じく普請をした。屋敷に家を作らせた。
  • 「」 - 同じく普請をした。「」城へ出仕した。
  • 3月4日 - 同じく普請をした。午前6時頃より雨降り。小姓衆を振る舞った。
  • 3月5日 - 「」まで雨降り。同じく普請をした。
  • 3月6日 - 牧野原城の城番に掛川の益田まで行った。人数を浜松に半分置き残して普請をさせた。
  • 3月7日 - 牧野原城々番を西郷家員と交替した。
  • 3月8日 - 定番衆を振舞った。
  • 3月9日 - 雨が午前4時頃まで降った。
  • 3月10日 - 番をしながらの普請をした。松平甚太郎家忠の所に振舞があった。
  • 3月11日 - 同じく普請をした。松平甚太郎家忠の家来衆を振舞った。晩に牧野康成の家来衆山本与一郎の所に振舞があった。
  • 3月12日 - 番普請が出来た。松平康親東条城より帰られた。前日同様、牛久保牧野衆の山本与一郎の所に振舞があった。
  • 3月13日 - 松平康親へ振舞をした。足軽衆が稼ぎに行って男女24人と牛馬4頭を取ってきた。
  • 3月14日 - 松平甚太郎家忠の家来衆・都筑助大夫の所に振舞があった。
  • 3月15日 - 記述無し。
  • 3月16日 - 午前8時頃より雨降り。翌午前4時頃まで降った。松平康親の所に振舞があった。晩に東条衆「」。
  • 3月17日から3月20日までは欠損している。
  • 3月21日 - 「」。
  • 3月22日 - 普請が出来た。家中の松平喜平が定番衆を振舞った。
  • 3月23日 - 牛久保衆の稲垣長茂の所に振舞があった。
  • 3月24日、3月25日は記述無し。
  • 3月26日 - 牧野原城々番を戸田康長と交替した。浜松まで来た。
  • 3月27日 - 午後8時頃まで雨降り。深溝へ日駆けにて来た。
  • 3月28日 - 午前4時頃まで雨降り。竹谷の松平清善殿より使者が来た。
  • 3月29日、3月晦日は記述無し。

天正7年(1579年)4月[編集]

  • 4月1日 - 三光院に振舞があった。会下に参った。
  • 「」 - 午後8時頃より雨降り。
  • 4月3日から4月6日までは欠損している。
  • 4月7日 - 深溝六回市場「」たち候。
  • 4月8日 - 崇福寺へ振舞にて行った。岡崎の松崎殿と伊東殿が御越しになった。
  • 4月9日 - 松平権兵衛尉の所に振舞があった。横落民部殿より鹿毛の馬の所望があった。
  • 4月10日 - 大原一平の所に振舞があった。午後8時頃より雨が降った。
  • 4月11日 - 午後2時頃まで雨降り。深溝へ帰った。
  • 4月12日 - 記述無し。
  • 4月13日 - 午後4時頃より雨降り。浜松へ人を行かせた。犬法師が向かい、同人に茶の初穂を持たせた。
  • 4月14日 - 雨降り。
  • 4月15日 - 午前10時頃まで雨降り。会下へ参った。
  • 4月16日 - 夜雨降り。吉田の藤田寺に高合として米10俵を届けた。浜松より犬法師が来た。
  • 4月17日から4月20日は欠損している。
  • 4月21「」 - 記述無し。
  • 4月22日 - 家の板返をした。酒井宗右衛門尉の所に振舞があった。
  • 4月23日 - 市で差し毛の馬を買った。敵の武田勝頼が駿河の江尻まで出陣してきたとのことで、来る26日に浜松まで到着するようにと石川数正の所へ触れがあった。
  • 4月24日 - 記述無し。
  • 4月25日 - 浜松まで日駆けにて出陣した。城へ午後2時頃に出仕した。武田勢は高天神城下の国安に陣取ったとのことだ。
  • 4月26日 - 家康は夜の内に馬伏塚まで御出馬になった。信康も吉田より馬伏塚まで来られた。自分は各三河国衆と見附に陣取った。
  • 4月27日 - 三河国衆は袋井まで陣を寄せた。武田勢は国安を撤退した。
  • 4月28日 - 我々は河合市場へ陣替えをした。
  • 4月29日 - 馬伏塚の本営へ行った。武田勢が大井川を越えて撤退したので、浜松まで御帰陣なされた。
  • 4月晦日 - 午後10時頃より雨降り。全軍が三河へ返して大将衆だけが浜松に残った。

天正7年(1579年)5月[編集]

  • 5月1日から5月4日まで欠損している。5月5日もほとんど欠損。
  • 5月6日 - 記述無し。
  • 5月7日 - 夜より雨降り。
  • 5月8日 - 雨降り。東条の都筑助大夫が来た。
  • 5月9日 - 昨日同様雨降り。
  • 5月10日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 5月11日 - 夜まで雨降り。祈禱があった。
  • 5月12日 - 夜まで雨降り。川狩に行った。
  • 5月13日 - 夜より雨降り。川狩りに行った。
  • 5月14日 - 雨降り。
  • 5月15日 - 午後6時頃まで雨降り。会下にて日待をした。
  • 5月16日 - 記述無し。
  • 5月17日 - 午前4時頃より雨降り。
  • 5月18日 - 昨日同様雨降り。法花寺に月次の連歌があった。弁殿の所。発句「ふしたてハ水草ましりも早苗哉、ていしゆたい正佐」
  • 5月19日 - 午前10時頃まで雨降り。竹谷の松平清善殿が座敷を作られ「」。
  • 5月20日から5月23日まで欠損している。
  • 5月24日 - 申刻「」。
  • 5月25日 - 会下より初山桃が届いた。
  • 5月26日、5月27日は記述なし。
  • 5月28日 - 東条城の都筑助大夫が来られた。
  • 5月晦日 - 川狩に行った。

天正7年(1579年)6月[編集]

  • 6月1日 - 午後4時頃に夕立があった。初瓜が届いた。尾州山崎の婆あ(家忠の妻の母)が来られた。岡崎へ行って城へ出仕した。松平信一の所に振舞があった。小美に川狩に行った。
  • 6月2日 - 保母の松平忠政の所に振舞があった。午前10時頃より雨が降った。保母に留まった。
  • 6月3日 - 夜まで雨降り。深溝へ帰った。
  • 6月4日 - 川狩に行った。正午頃より雨降り。
  • 「」 - 家康が浜松より信康と御「」の仲直しに来られた。「」時「」家康御屋敷へ「」御渡し候て、ふかうすかへり候。
  • 6月6日 - 幡豆の龍「」院より山桃が届いた。
  • 6月7日 - 浜松殿が遠州へ帰られた。攪乱(日射病)を患った。
  • 6月8日 - 午前8時頃に雨降り。
  • 6月9日 - 尾州山崎の女房衆が帰られた。
  • 6月10日 - 記述なし。
  • 6月11日 - 午前6時頃より雨降り。
  • 6月12日 - 夜まで雨降り。
  • 6月13日 - 川狩に行った。
  • 6月14日 - 夜より雨が降った。
  • 6月15日 - 午前10時頃より大風が吹いた。昨日同様雨が降った。
  • 6月16日 - 午前6時頃まで風が吹いた。同じく雨も降った。
  • 6月17日 - 午前6時頃まで雨降り。又夜より雨降り。
  • 6月18日 - 同じく雨降り。裏に3間の座敷を作った。
  • 「」 - 午前8時頃まで雨降り。
  • 6月19日の部分から6月23日まで欠損している。
  • 6月24日 - 午前6時頃に雨降り。はらはらと降った。又午後6時頃より雨降り。
  • 6月25日 - 月次の連歌があった。竹谷の松平金左衛門尉と御油の浄頓が来た。発句・正佐作「まきいれて風かほりそふ廉哉」
  • 6月26日 - 記述なし。
  • 6月27日 - 会下へ参った。
  • 6月28日 - 午前6時頃に雨降り。同日午後6時頃より雨降り。
  • 6月29日 - 午前10時頃まで雨降り。川狩に行った。
  • 6月30日 - 川狩に行った。知多郡より意卜が来られた。越前よりも幸鶴大夫が舞に来た。会下に舞があり、信太、和田酒盛、烏帽子折の以上三番があった。

天正7年(1579年)7月[編集]

  • 7月1日 - 幸鶴大夫が来て舞った。夜討曾我、八島、笛の巻、又その後座敷にて勧進帳があり、以上四番。
  • 7月2日 - 川狩に行った。同名親定(松平親定)の所に振舞があり、大織冠、高館、伏見常盤、腰越の以上4番。
  • 7月3日 - 記述なし。
  • 7月4日 - 川狩に行った。
  • 「」 - 「」へ堤防を築造に行った。「」降。
  • 7月6日 - 午後6時頃より夕立で夜まで降った。堤防の築造をした。
  • 7月7日 - 岡崎城へ出仕のために行った。又永良へ帰った。同じく堤防の築造をした。
  • 7月8日 - 深溝へ帰った。同じく堤防の築造をした。
  • 7月9日 - 川狩に行った。岡崎より松崎殿と伊東殿が来られた。遠州より大草殿(松平康安)が来られた。
  • 7月10日 - 川狩に行った。
  • 7月11日 - 記述なし。
  • 7月12日 - 正午頃より夕立で雨が夜まで降った。松崎と伊東が岡崎へ帰られた。川狩に行った。
  • 7月13日 - 午前10時頃より夕立で夜まで雨が降った。川狩に行った。浜松より犬法師が来た。
  • 7月14日 - 会下の施餓鬼会に行った。
  • 7月15日 - 同様に城で施餓鬼会をおこなって、会下へ参った。大草殿に兵法を習った。
  • 7月16日 - 記述なし。
  • 7月17日 - 川狩に行った。
  • 7月18日 - 踊りを寺方へ奉納して踊らせた。
  • 7月19日 - 午後4時頃より6時頃まで夕立があった。
  • 7月20日 - 三光院と大坊より踊りの御返しがあり、午後4時頃より8時頃まで夕立があった。
  • 7月21日 - 午前6時頃より正午頃まで雨降り。会下へ参った。
  • 7月22日から7月24日まで記述なし。
  • 7月25日 - 小美へ川狩に行った。岡崎の伊東殿と丹羽隼人が来られた。
  • 7月26日 - 保母の松平忠政の所に振舞があり、昨日同様川狩に行き深溝へ帰った。松平定広(家忠の又従弟)の祝言があった。野田の菅沼又左衛門尉殿より。
  • 7月27日 - 午前6時頃より雨降り。
  • 7月28日 - 松平定広の所へ祝言振舞があって行った。昨日同様雨降り。
  • 7月晦日 - 昨日同様雨降り。風も吹いた。

天正7年(1579年)8月[編集]

  • 8月1日 - 大雨が降った。家中衆が礼に来られた。
  • 8月2日 - 夜まで雨降り。永良の堤防が決壊した。松平喜平の所に月次の連歌があった。発句「正佐作、ていしゅ。「梅雨に香はこほれぬや猶萩か花」。
  • 8月3日 - 浜松より家康が岡崎へ来られた。
  • 8月4日 - 夜より雨降り。御親子は争論で物別れとなり、信康は大浜へ御退きになった。
  • 8月5日 - 夜より雨降り。岡崎へ行ってみれば、家康より早々に弓鉄砲衆を引き連れて西尾へ行けと仰せがあり西尾へ行った。家康も西尾へ移られた。会下に陣取った。北端の城番に上がった。
  • 8月6日 - 雨降り。北端の城番に上がった。
  • 8月7日 - 正午頃まで雨降り。家康は岡崎へ御越しになった。西尾本城の御番は松平康忠。榊原康政、北端城の御番は松平清宗、鵜殿長信の両人と自分の3人である。酒井善五左衛門の所に陣取った。松平清宗と鵜殿長信を振舞った。平岩親吉の所より大鷹の兄弟を預かった。
  • 8月8日 - 榊原康政、松平康忠、松平清宗、鵜殿長信らを振舞った。
  • 8月9日 - 松平康定が岡崎大澤山龍渓院の石川数正の山林へ行った。御命令で小姓衆5人が信康と大浜より遠州の堀江城へ行かれた。
  • 8月10日 - 家康より岡崎へ来るようにとの鵜殿重長の御使いがあって岡崎へ行った。各国衆が信康へ内通しない旨の起請文を御城にて書いた。
  • 8月11日 - 深溝へ帰った。厩を作らせた。
  • 8月12日 - 会下へ参った。
  • 8月13日 - 12日の事、家康が浜松へ御帰りになった。鵜殿重長が来られた。岡崎城には本多重次が御留守居として置かれた。
  • 8月14日 - 午前6時頃に雨降り。
  • 8月15日 - 本多重次の所へ音信をした。吉田の酒井忠次の所より、来る19日の出陣の触れが来た。
  • 8月16日 - 午前6時頃より夜まで雨降り。
  • 8月17日 - 京の茶湯者宗音が来た。平岩親吉の所より預かった鷹を取りに来た。
  • 8月18日 - 竹谷まで陣の準備をして到着したが、今回は先へ延期になった旨、酒井忠次より折紙が来たので帰った。
  • 8月19日 - 足助へ漆を買いに人を行かせた。
  • 8月20日 - 午前零時頃より雨降り。
  • 8月21日 - 夜まで雨降り。家計の収支計算をした。
  • 8月22日 - 午後6時頃より雨降り。
  • 8月23日 - 同じく雨降り。鉄砲の火薬を調合した。
  • 8月24日 - 午前6時頃まで雨降り。犬法師が浜松へ帰った。
  • 8月25日 - 彼岸に入った。正午頃より雨降り。会下へ参った。
  • 8月26日 - 同じく雨降り。
  • 8月27日 - 同じく雨降り。松平藤五郎方に月次の連歌があった。発句。ていしゆ名たい正佐「いやましの花や露そふ野への秋」
  • 8月28日 - 夜まで雨降り。会下へ参った。
  • 8月29日 - 記述なし。
  • 8月30日 - 午後4時頃に地震があった。

天正7年(1579年)9月[編集]

  • 9月1日 - 記述なし。
  • 9月2日 - 牧野原城々番のため日通りにて浜松まで行った。家康が御病気だったので城には出仕しなかった。我々の所へ松平清宗、鵜殿休庵が来られた。
  • 9月3日 - 鵜殿重長の所に振舞があって、それから掛川まで行った。
  • 9月4日 - 牧野原城々番のために西郷家員と交替した。松平康親の所に振舞があった。
  • 9月5日 - 牧野原城の定番衆を振舞った。北条氏との調停が成立して朝比奈泰勝が昨日来られたとの浜松よりの連絡があった。
  • 9月6日 - 東条衆の都筑助大夫の所に振舞があった。
  • 9月7日 - 東条衆の岡田権平の所に振舞があった。夕食は牛久保殿方にて振舞があった。
  • 9月8日 - 塀の普請をした。小笠原安次の所に振舞があった。
  • 9月9日 - 午後2時頃より夜まで雨降り。家中の松平伊長が各定番衆を振舞った。
  • 9月10日 - 昨日同様、家中の松平権兵衛尉が定番衆を振舞った。
  • 9月11日 - 松平甚太郎家忠の所に振舞があった。
  • 9月12日 - 記述なし。
  • 9月13日 - 北条氏との調停が全て整って、来る17日には共同の軍事攻勢を掛けると浜松より連絡が来た。
  • 9月14日 - 牧野原城番衆を振舞った。
  • 9月15日 - 午後2時頃より雨降り。
  • 9月16日 - 記述なし。
  • 9月17日 - 北条氏との協同行動に多くの軍勢が掛川を出陣した。
  • 9月18日 - 駿河の二山に陣取った。我々は当番として牧野原城の御留守番となった。
  • 9月19日 - 同じく駿河の当目坂城持船城を牧野原城衆と掛川城衆が攻め崩し30人程討ち取った。
  • 9月20日 - 記述なし。
  • 9月21日 - 午後6時頃より雨降り。
  • 9月22日 - 同じく雨降り。
  • 9月23日 - 大風。雨降り。午後6時頃まで。
  • 9月24日 - 夜雨降り。
  • 9月25日 - 武田勢が駿府まで進出してきたので、軍勢を移動して家康は色尾まで引き取りになられた。
  • 9月26日、9月27日は記述無し。
  • 9月28日 - 北条方より早々に御帰陣なされよと連絡があったので、色尾を立ち退き牧野原城まで御帰陣されるとの事だ。
  • 9月晦日 - 牧野原城まで御帰陣になった。

天正7年(1579年)10月[編集]

  • 10月1日 - 午前6時頃より午後6時頃まで雨降り。牧野原城の堀普請をするようにとの事で、各国衆は浜松へ御帰陣になった。
  • 10月2日から10月4日まで記述無し。
  • 10月5日 - 午後2時頃より雨降り。浜松へ番替の事に関して二連木衆へ人を遣わした。
  • 10月6日 - 記述無し。
  • 10月7日 - 浜松の普請をしている内は番替無用との連絡が来た。
  • 10月8日 - 侍衆の半分を三河へ返した。今川氏真様が我々の陣所に御越しになった。
  • 10月9日 - 午後8時頃より雨降り。氏真様が御振舞をなされた。
  • 10月10日 - 正午頃まで雨降り。
  • 10月11日 - 記述無し。
  • 10月12日 - 午後6時頃に雨降り。
  • 10月13日、10月14日は記述無し。
  • 10月15日 - 浜松より近日中に合戦があると連絡が来た。
  • 10月16日 - 小笠原信元殿方へ振舞にて行った。
  • 10月17日 - 浜松へ番替の事を言いに行かせた。
  • 10月18日 - 浜松の普請が出来て各国衆が帰られた。二連木衆は来る25日に城番を交替すると連絡して来た。
  • 10月19日 - 午後2時ころより午前2時ころまで雨降り。家康が掛川まで御出陣になった。
  • 10月20日、10月21日は記述無し。
  • 10月22日 - 午前6時頃に地震があった。牧野原城の定番を振舞った。
  • 10月23日 - 記述無し。
  • 10月24日 - 家康が掛川より牧野原城まで御出陣になった。
  • 10月25日 - 北条の船の迎いが来るので、色尾崎まで朝比奈泰寄の見送りのために各々が行ったが、手違いがあって帰って来た。二連木衆に牧野原城の番を渡して交替した。
  • 10月26日 - 記述無し。
  • 10月27日 - 午前2時頃より雨降り。北条方の船を迎えに色尾まで行った。
  • 10月28日 - 午後6時頃まで雨降り。
  • 10月29日 - 記述無し。
  • 10月30日 - 二位法印如雪、松平清宗を振舞った。

天正7年(1579年)11月[編集]

  • 11月1日 - 城へ出仕した。三河の国衆が来られた。酒井忠次を振舞った。
  • 11月2日 - 松平清宗の所に振舞があった。北条氏の使者・朝比奈泰寄が掛塚より船で戻られるとの事で牧野原城を後にされた。城普請をした。
  • 11月3日 - 午前6時頃まで雨降り。昨日同様城普請をした。
  • 11月4日 - 色尾にかまりが行なわれて狼煙が次々に上がった。計略に違いがあって帰った。野に火をつけたのは鳥居元忠の同心で御成敗が行なわれた。
  • 11月5日 - 普請場所が変わった。松平清宗の所に振舞があった。
  • 11月6日 - 阿部正勝、松平清宗を振舞った。
  • 11月7日 - 同じく普請をした。滝堺城へかまりものみに行って、敵14、5人と荷物を20駄取った。
  • 11月8日 - 松平清善、松平清宗、鵜殿長信を振舞った。
  • 11月9日 - 夜より雨降り。松平清宗の所に振舞があった。
  • 「」 - 普請が完成した。午前10時頃まで雨降り。軍勢を半分返した。
  • 「」 - 家康は掛川まで御越しになった。各々は掛川の諸郷へ陣替をした。
  • 11月12日 - 家康が馬伏塚へ御越しになった。我々は河合市場まで行った。軍勢を返した。
  • 11月13日 - 松平清善の所に振舞があった。各国衆は横須賀まで陣替をした。我々は軍勢を返していたので酒井忠次と一緒にいた。
  • 11月14日 - 諸井まで酒井忠次が陣替をした。家康は御鷹が病気になって浜松へ御越しになった。
  • 11月15日 - 家康が浜松より御帰りになったので出仕をした。
  • 11月16日 - 記述無し。
  • 11月17日 - 酒井忠次を振舞った。
  • 11月18日 - 家康より鵜を下されるそうだ。
  • 11月19日 - 酒井忠次の小姓衆を振舞った。夕方には酒井忠次の所に振舞があった。
  • 11月20日 - 午後10時頃に各々帰陣するようにと本多信俊が御使いとして来たので、午後4時頃出発した。
  • 11月21日 - 深溝へ日駆けをした。
  • 11月22日 - 会下へ参った。午前4時頃より雨降り。
  • 11月23日 - 午前6時頃より雨降り。岡崎より松崎と伊東が来られた。「」うら所に振舞候。
  • 「」 - 「」うす雪ふる。家康より樽を下された。酒井忠次より敵が田中まで出てきたと連絡が来た。
  • 11月25日 - 松平康定の所に振舞があった。午前6時頃に岡崎の天野康景の所より、敵が出てきたので早々に行くようにと連絡があって新居まで出陣した。
  • 11月26日 - 浜松へ行った。松平清宗の所に振舞があった。城へ出仕した。武田勢が高天神城へ移動したと御注進があった。
  • 11月27日 - 見付まで出陣した。武田勢が国安から引き揚げた。
  • 11月28日 - 牧野原城へ飛脚が行った。
  • 11月晦日 - 武田勢が大井川を越えて引いたとのことで、浜松へ帰陣するようにという本多重次からの指示で帰陣していたら、家康より途中で戻し今日は前々の見付に陣取るようにと連絡が来て又帰った。

天正7年(1579年)12月[編集]

  • 12月1日 - 帰陣せよと連絡があって浜名まで行った。高橋より会下へと遣ってきた者が芦谷にて殺された。
  • 12月2日 - 深溝まで来た。
  • 12月3日 - 鷹狩に出かけた。
  • 12月4日 - 会下へ参った。
  • 12月5日 - 鷹狩に出かけた。
  • 12月6日 - 記述無し。
  • 12月7日 - 鷹狩に出かけた。桐山の音部「」が鵺をくれた。
  • 12月8日 - 鷹狩に出かけた。芦谷にて殺人事件を起こした犯人を調べに岡崎より検使が来た。
  • 12月9日 - 吉田、酒井忠次の娘が牧野康成の所へ祝言があった。鷹狩に出かけた。
  • 12月10日 - 永良へ鷹狩に行った。午後8時頃より雨降り。
  • 12月11日 - 昨日同様雨降り。
  • 12月12日 - 小寒に入った。永良より深溝へ帰った。午後6時頃まで雨降り。
  • 12月13日 - 記述無し。
  • 12月14日 - 鵜殿長信が子を設けられた御祝いに下ノ郷に行った。
  • 12月15日 - 会下へ参った。妹おさちが御末間にて火傷を負った。
  • 12月16日 - 芦谷にて殺人を犯した者が現れて六栗より連絡が来た。鷹狩に出掛けた。午後2時頃より雨降り。
  • 12月17日 - 昨日同様雨降り。
  • 12月18日 - 午前6時頃まで雨降り。清田と丹羽隼人が来た。又午後6時頃より雨降り。
  • 12月19日 - 雨降り。昼に雨間があった。
  • 12月20日 - 昨日同様雨降り。
  • 12月21日 - 吉田の酒井忠次へ人を行かせた。午前6時頃まで雨降り。会下へ参った。
  • 12月22日 - 日待をした。会下にて東堂、同じく益蔵主が振舞をなされた。
  • 12月23日 - 記述無し。
  • 12月24日 - 少しばかり雪が降り積もった。
  • 12月25日 - 岡崎へ行った。満性寺一世の所に留まった。
  • 12月26日 - 平岩親吉、石川数正の所へ行った。鷹の番の交配に深溝へ帰った。
  • 12月27日 - 午前零時頃に地震があった。
  • 12月28日 - 午後4時頃より夜まで雨降り。
  • 12月29日 - 浜松へ越年のために行った。浜名に留まった。
  • 12月晦日 - 浜松まで行った。午前2時頃より雨降り。落ち着いて鵜殿重長方に振舞があった。

天正8年(1580年)1月[編集]

  • 1月1日 - 午後6時頃より雨降り。城への出仕は2日に出るようにとのことである。
  • 1月2日 - 松平清宗の所に振舞があった。城へ出仕した。夕方には謡初に出た。本多忠勝が奏者を務めた。
  • 1月3日 - 午前6時頃より雨降り、夜まで。浜松から吉田へ新年の礼のために寄って深溝へ日駆けにて来た。
  • 1月4日 - 家中衆が新年の礼に来られた。会下の東堂に振舞をした。
  • 1月5日 - 会下に振舞があって新年の礼をしながら行った。
  • 1月6日 - 記述無し。
  • 1月7日 - 鷹狩に出掛けた。岡崎より宗二郎が来た。
  • 1月8日 - 鷹狩に永良まで出掛けた。
  • 1月9日 - 午後6時頃時雨が降り、夜には雪が降った。岡崎の久志本法安が御越しになった。
  • 1月10日 - 午前6時頃より午後6時頃まで雨降り。北殿の所に振舞があった。
  • 1月11日 - 祈祷があった。松平親定の所へ振舞があって行った。鷹狩に出掛けた。
  • 1月12日 - 松平喜平の所へ振舞があって行った。鷹狩へ出掛けた。午後4時頃より雨降り。
  • 1月13日 - 午後2時頃まで雨降り。佳例の連歌があり発句は勘左作。夜霰が降った。家忠。けふよりや春もいく世の宿の松。
  • 1月14日 - 記述無し。
  • 1月15日 - 会下へ参った。雪、霰が降った。
  • 1月16日 - 月触が午前4時から6時の間にあった。家康が岡崎へ御越しになった。
  • 1月17日 - 岡崎へ行って城へ出仕した。満性寺の一世の所へ留まった。
  • 1月18日 - 岡崎の家中衆へ礼に歩いて、深溝へ帰った。
  • 1月19日 - 会下にて日待をした。益蔵主と春蔵主に振舞をした。岡崎より犬法師に万疋の知行を下されるという連絡が来た。
  • 1月20日 - 午前零時頃、三光院門前にて友作の所に火事が発生した。
  • 1月21日 - 会下へ参った。殿様より鷹狩の雁を頂いた。中島へ行った。
  • 1月22日 - 中島の松平権兵衛尉の所に月次の連歌があった。発句、正佐作「去年ひらく梅や久しき宿の春」ていしゅ。
  • 1月23日 - 鷹狩に出かけた。松平権兵衛尉の所に振舞があった。犬法師に知行が安城にて万疋渡った。
  • 1月24日 - 夜雨降り。家康が西尾へ鷹狩に行った。深溝へ帰った。同様鷹狩に出掛けた。
  • 1月25日 - 記述無し。
  • 1月26日 - 正午頃より雨降り。夜まで降った。
  • 1月27日 - 家康が西尾より岡崎へ御帰りになった。
  • 1月28日 - 午前6時頃より雨降り。家康へ御音信物を差し上げた。
  • 1月29日 - 昨日同様雨降り。岡崎の満性寺一世が来られた。

天正8年(1580年)2月[編集]

  • 2月1日 - 日触。午前10時から正午の時間。午前10時頃まで雨降り。桜井の舞々が来た。烏帽子折、八島、勧進帳、以上三番。
  • 2月2日 - 満性寺一世が帰られた。
  • 2月3日 - 鷹狩へ出掛けた。正午頃より雨降り。
  • 「」 - 午前4時頃まで雨降り。
  • 「」 - 「」松まで御帰りになった。同朋衆の長阿弥が来た。
  • 2月6日と2月7日は欠損している。
  • 「」 - 「」刻より雨、夜まで降った。
  • 2月9日 - 記述無し。
  • 2月10日 - 午後6時頃より雨降り。吉田より近日中に出陣があると連絡が来た。
  • 2月11日 - 午前10時頃まで雨降り。竹谷の松平金左衛門殿が来られた。
  • 2月12日 - 鵜殿長次殿が来られた。
  • 2月13日 - 中島へ鷹狩へ行った。
  • 2月14日 - 午前8時頃より雨降り。南風が荒く吹いた。吉田より来る22日に、浜松まで出陣せよと連絡が来た。岡崎へ行った。
  • 2月15日 - 午後4時頃まで雨降。石川数正、平岩親吉の所へ行って深溝へ帰った。会下へ参った。
  • 2月16日 - 記述無し。
  • 2月17日 - 尾張の御新造様(徳姫)が美濃国へことごとくお移りになるとの事で、浜松殿が岡崎へ御越しになった。
  • 2月18日 - 緒川の婆あが御越しになった。岡崎へ行って城へ出仕した。明後日の20日に御新造様を送りに行くようにとの仰せがあって、深溝へ帰った。午後10時頃より雨降。
  • 2月19日 - 正午頃まで雨降り。
  • 2月20日 - 御新造様を送りに尾張国の桶狭間まで行った。来る22日の出陣も少し延期になるとの事だ。
  • 2月21日 - 会下へ参った。家康は浜松へ御帰りになった。
  • 2月22日 - 永良へ鷹狩に行った。
  • 2月23日 - 昨日同様鷹狩に出掛けた。
  • 2月24日 - 鷹狩に出掛けた。深溝へ帰った。
  • 2月25日 - 犬法師が浜松へ帰った。竹谷の松平久弥助が来られた。松平康定の所に振舞があった。東条の舞々が来た。笈捜、堀河夜討、四国落の三番。
  • 2月26日 - 夜雨降る。
  • 2月27日 - 卯刻より雨降り、とあるが墨で消されている。
  • 2月28日 - 午前6時頃より雨降り。
  • 2月29日 - 午前8時頃まで雨降り。
  • 2月晦日 - 記述無し。

天正8年(1580年)3月[編集]

  • 3月1日 - 会下へ参った。
  • 3月2日 - 午前8時頃より雨降り。雨間があった。鷹狩に出掛けた。桜井寺大坊にて馬を見た。
  • 3月3日 - 昨日同様雨降り。会下へ参った。
  • 3月4日 - 同じく雨降り。
  • 3月5日 - 同じく雨降り。
  • 3月6日 - 午前6時頃まで雨降り。山鷹狩へ出掛けた。土呂の銀師が来た。鞍を拵えた。又午後6時頃より雨降り。
  • 3月7日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 3月8日 - 山鷹狩へ出掛けた。
  • 3月9日 - 松平小右衛門尉の所に月次の連歌があった。発句。同名正佐作。「かへす田のめくる水行野澤哉」。
  • 3月10日 - 鵜殿長信が礼に来られた。山鷹狩に出掛けた。
  • 3月11日 - 夜、雨が降った。山鷹狩に中島へ行った。
  • 3月12日 - 八専に入った。内肩にお灸を据えた。鷹が過ち羽ばたきをしたので深溝へ帰った。岡崎の伊東殿が来られた。
  • 3月13日 - 来る16日に出陣するようにと吉田の酒井忠次から連絡が来た。高天神城に対する御砦との事だ。
  • 3月14日 - 吉田より人足を召し連れて来るようにと連絡が来た。
  • 3月15日 - 人夫役を出発させた。
  • 3月16日 - 日駆けにて浜松へ行った。城へ出仕した。落ち着いた後に鵜殿重長の振舞があった。
  • 3月17日 - 松平清宗の所に振舞があって、それから鎌田まで出陣した。
  • 3月18日 - 大坂砦場まで行った。
  • 3月19日 - 正午頃より午後10時頃まで雨降り。旗本へ出向いた。
  • 3月20日 - 大坂堀、砦普請をした。
  • 3月21日 - 昨日同様普請をした。
  • 3月22日 - 同じく普請をした。
  • 3月23日 - 午前10時頃より午後6時頃まで雨降り。同じく普請をした。
  • 3月24日 - 同じく普請をした。家康より肴を戴いた。
  • 3月25日 - 相坂砦の普請を仕掛けておいて、中村砦へ行った。普請をした。
  • 3月26日 - 同じく普請をした。酒井忠次より兎が届いた。
  • 3月27日 - 同じく普請をした。
  • 3月28日 - 中村砦の普請が出来た。
  • 3月29日 - 午後10時頃より雨降り。相坂砦と中村砦の中間に砦を設けて普請をした。

天正8年(1580年)閏3月[編集]

  • 閏3月1日 - 相坂砦と田中を手分けして普請した。昨日同様雨降り。
  • 閏3月2日 - また相坂砦の普請をした。
  • 閏3月3日 - 同じく普請をした。家康から樽酒を戴いた。
  • 閏3月4日 - また家を作れとの事である。水野忠重殿から鷹狩の鴨が届いた。
  • 閏3月5日 - 家を作った。午後6時頃より雨降り。
  • 閏3月6日 - 午後4時頃まで雨降り。普請は休み。
  • 閏3月7日 - また堀の普請をした。
  • 閏3月8日 - 陣家を城へ届け出た。
  • 閏3月9日 - 吉田まで帰陣した。
  • 閏3月10日 - 深溝まで帰った。会下へ参った。
  • 閏3月11日、閏3月12日は記述無し。
  • 閏3月13日 - 中島へ茶会に行った。
  • 閏3月14日 - 岡崎より松崎殿と伊東殿が来られた。
  • 閏3月15日 - 崇福寺に振舞があって行った。
  • 閏3月16日 - 午後4時頃より雨降り。岡田孫左衛門尉を振舞った。
  • 閏3月17日 - 午後6時頃まで雨降り。永良の大原一平の所に振舞があって行った。
  • 閏3月18日 - 夜より雨降り。崇福寺の文師方に振舞があって行った。
  • 閏3月19日 - 昨日同様雨降り。
  • 閏3月20日 - 午前6時頃まで雨降り。大水が出た。
  • 閏3月21日 - 松崎と伊東が帰られた。
  • 閏3月22日 - 深溝へ帰った。
  • 閏3月23日 - 午前6時頃より雨降り。会下へ参った。
  • 閏3月24日 - 昨日同様雨降り。松平伊長の所に振舞があって行った。
  • 閏3月25日 - 午後2時頃まで雨降り。
  • 閏3月26日 - 会下で普請をした。浜松へ茶の初穂を持たせて行かせた。
  • 閏3月27日 - 昨日同様普請をした。
  • 閏3月28日 - 時鳥の初音を聞いた。同じく普請をした。
  • 閏3月29日 - 午前10時頃より雨降り。浜松より犬法師が来た。会下の普請が出来た。鵜殿長信との間で足後の山に関して訴訟があり、山刈りに人を遣わした。
  • 閏3月30日 - 昨日同様雨降り。日近郷より馬の出品があって見に行った。来る5日か6日頃に陣備えがあると酒井忠次殿より連絡が来た。

天正8年(1580年)4月[編集]

  • 4月1日 - 午前8時頃まで雨降り。会下へ参った。
  • 4月2日 - 記述無し。
  • 4月3日 - 会下の家普請をした。大工が1人、家より転落した。足後の山の訴訟のために竹谷と下ノ郷と一庵の所より使者が来た。
  • 4月4日 - 記述無し。
  • 4月5日 - 足後の山の訴訟のために浜松へ人を遣わした。会下の家の棟木が上がる祝があって行った。
  • 4月6日 - 午前8時頃より雨降り。
  • 4月7日 - 午前8時頃まで雨降り。会下へ参った。
  • 4月8日 - 下ノ郷との山訴訟の調停のために浜松より鵜殿重長が来られて、竹谷へ帰られた。
  • 4月9日 - 記述無し。
  • 4月10日 - 隠入院と鵜殿重長が下ノ郷との山訴訟の調停に来られた。
  • 4月11日 - 正午頃より雨降り。
  • 4月12日 - 午前8時まで雨降り。山の訴訟が隠入院と鵜殿重長の調停によって以前のように峰切りということで決着した。
  • 4月13日 - 川狩に行った。鵜殿重長が浜松へ帰られた。
  • 4月14日 - 深溝の年貢計算をした。
  • 4月15日 - 会下へ参った。牧野原城々番の人夫を出した。
  • 4月16日 - 正午頃より雨、午前8時頃まで降った。牧野原城々番のため、浜松まで日駆けにて行った。城へ出仕した。
  • 4月17日 - 掛川の益田まで行った。
  • 4月18日 - 牧野原城々番へ西郷家員に替わって付いた。小笠原安次の所に振舞があった。
  • 4月19日 - 午後6時頃より雨降り。松平甚太郎家忠の所に振舞があった。
  • 4月20日 - 午前8時頃まで雨降り。
  • 4月21日 - 午前8時頃より夜まで雨降り。牧野原城の定番衆を振舞った。
  • 4月22日 - 記述無し。
  • 4月23日 - 交替番の普請をした。
  • 4月24日 - 午前2時頃より雨降り。
  • 4月25日 - 昨日同様雨降り。
  • 4月26日 - 同じく雨降り。定番衆を振舞った。
  • 4月27日 - 大雨降り。攻撃を仕掛けるため三河国衆が池田まで来られた。
  • 4月28日 - 昨日同様雨降り。深溝衆内での交替で2番衆の者たちが来た。
  • 4月29日 - 同じく雨降り。

天正8年(1580年)5月[編集]

  • 5月1日 - 家康が掛川まで御出馬になった。阿部正勝が来られたので振舞をした。
  • 5月2日 - 牧野原城まで多くの軍勢が到着した。遠江衆は色尾まで出て陣取られた。
  • 5月3日 - 田中城へ攻撃をかけられた。
  • 5月4日 - 田中で陣取りをした。
  • 5月5日 - 退却口に持船城朝比奈信良が軍勢を配置して、石川数正配下衆に付き従った者32人を討ち取ったので、家康は掛川まで軍勢を戻された。
  • 5月6日 - 大雨降り。
  • 5月7日 - 昨日同様雨降り。
  • 5月8日 - 同じく雨降り。
  • 5月9日 - 同じく雨降り。
  • 5月10日 - 夜まで雨降り。
  • 5月11日 - 記述無し。
  • 5月12日 - 午後4時頃より雨降り。交替番の普請ができた。牧野康成の所に振舞があった。
  • 5月13日 - 夜まで雨降り。
  • 5月14日 - 記述無し。
  • 5月15日 - 掃除普請をした。
  • 5月16日 - 松平甚太郎家忠の所で風呂に入り、同所で振舞があった。
  • 5月17日 - 午前6時頃より正午頃まで雨降り。牧野原城々番を戸田康長に替わって浜松まで来た。
  • 5月18日 - 深溝まで日駆けにて来た。
  • 5月19日 - 会下へ参った。
  • 5月20日 - 川狩に行った。
  • 5月21日 - 会下へ参った。
  • 5月22日 - 記述無し。
  • 5月23日 - 午後6時頃より8時頃まで雨降り。
  • 5月24日 - 日待をしに会下へ行った。
  • 「」 - アハノウンノタラニ。
  • 「」 - 「」五三。
  • 「」 - ノ之ニ同三カチノ同定ウチ。
  • 「」 - 「」刻より雨降り。
  • 5月28日 - 午前10時頃まで雨降り。
  • 5月29日 - 記述無し。
  • 5月晦日 - 土用に入った。川狩に行った。

天正8年(1580年)6月[編集]

  • 6月1日 - 会下へ参った。
  • 6月2日 - 記述無し。
  • 6月3日 - 吉田より来る8日の陣触れが来た。夜、夕立があった。川狩に行った。
  • 6月4日 - 小美へ川狩に行った。
  • 6月5日 - 松平忠政の所に振舞があった。深溝へ帰った。
  • 6月6日、6月7日は記述無し。
  • 6月8日 - 吉田まで出陣した。
  • 6月9日 - 浜松へ出陣した。
  • 6月10日 - 家康は横須賀まで御出陣なされた。鎌田まで出陣した。
  • 6月11日 - 高天神城を囲む砦場の獅子ヶ鼻に陣取った。
  • 6月12日 - 砦の普請をした。
  • 6月13日 - 昨日同様普請をした。
  • 6月14日 - 午前4時頃夕立があった。同じく普請をした。家康より肴を戴いた。
  • 6月15日 - 同じく普請をした。月触が午後8時から10時の間で開顕した。月の北縁にて星触があり午前0時頃には南縁へと貫通した。
  • 6月16日 - 同じく普請をした。家康より瓜を頂戴した。
  • 6月17日 - 砦の普請が出来た。高天神城下の町に放火攻撃を敢行して、家中にも2人の負傷者が出た。
  • 6月18日 - 稲を薙ぎ払う工作を行って、三河国衆は浜松まで帰陣した。
  • 6月19日 - 深溝まで帰陣した。
  • 6月20日 - 記述無し。
  • 6月21日 - 会下へ参った。松平清宗殿が20日に相州より帰られたと連絡が来た。
  • 6月22日から6月24日は記述無し。
  • 6月25日 - 浜松にて家康の小姓衆の大須賀弥吉が、先回高天神攻めで軍法に背いたとの事で腹を御切らせになった。
  • 6月26日 - 松平清宗の所より伊豆の土産が来た。修善寺紙と鞦が届いた。
  • 6月27日 - 雨乞いの連歌の一巡をした。発句「雨にますなかれすすしき宮居哉」勘左作。
  • 「」 - 午後2時頃より雨降り。「」こいの連歌候、「」。
  • 「」 - 「」時まで雨降り。中島の堤防が決壊した。
  • 6月晦日 - 午前6時頃に雨。夜まで降った。

天正8年(1580年)7月[編集]

  • 7月1日 - 五間三尺。会下へ参った。
  • 7月2日 - 串行来一間。
  • 7月3日 - 常は二間。
  • 7月4日から7月6日まで記述無し。
  • 7月7日 - 正午頃より午後6時頃まで夕立があった。会下へ参った。
  • 7月8日 - 午後2時から4時にかけて雨降り。中島へ堤防の築造に行った。
  • 7月9日 - 堤防を築造した。
  • 7月10日 - 堤防を築造して、深溝へ帰った。
  • 7月11日 - 午後10時頃に雨降り。松平定広の所に月次の連歌があった。発句、正佐作、ていしゅ。ゆふ露の月をちらすな荻の風。
  • 7月12日、7月13日は記述無し。
  • 「」 - 「」餓鬼会にて参った。「」所より来る17日に「」立候由申来候。
  • 7月15日 - 施餓鬼会があった。
  • 7月16日 - 記述無し。
  • 7月17日 - 午前8時頃雨降り。二川まで出陣した。
  • 7月18日 - 夜雨が降り雷が鳴った。浜松まで出陣した。城へ出仕した。松平清宗の所に振舞があった。
  • 7月19日 - 見付まで出陣した。
  • 7月20日 - 家康が掛川まで御越しになった。国衆は掛川の山口まで行った。
  • 7月21日 - 色尾崎へ川原の陣取りである。
  • 7月22日 - 刈田の差し押さえをするため小山城方面へ出撃した。自分の所で負傷者が二人出た。
  • 7月23日 - 石川数正が田中城方面に攻撃を仕掛けた。酒井忠次配下の衆は休みである。
  • 7月24日 - 刈田働きのために行った。小山城方面の刈田差し押えをしていた本多忠勝配下の衆が、小山城の外構えで鑓にて三人討たれた。
  • 7月25日 - 夜雨降り。小山城方面に攻撃を仕掛けた。
  • 7月26日 - 夜より午後2時頃まで雨降り。各々が帰陣した。家康は掛川まで御帰陣になった。
  • 7月27日 - 家康と各国衆は浜松まで帰陣した。国衆侍が陣番で不都合なことがあってはならない旨の起請文を書いた。
  • 7月28日 - 小松原に参って、吉田まで帰った。
  • 7月29日 - 正午頃から午後2時頃まで雨降り。深溝まで帰陣した。 

天正8年(1580年)「」月[編集]

  • 「」 - 「」中衆が礼に来られた。午後2時頃まで雨降り。
  • 8月2日 - 記述無し。
  • 8月3日 - 夜より雨降り。丹羽隼人が来られた。
  • 8月4日 - 昨日同様雨降り。竹谷の松平清善の所より、明日夕食に来るようにと連絡が来た。
  • 8月5日 - 竹谷行きの件は、雨降りのため延期となった。
  • 8月6日 - 午前2時頃まで雨降り。竹谷へ礼に行った。舞々の幸鶴大夫が来た。
  • 8月7日 - 彼岸に入った。舞があった。志田、巻狩、堀河夜討、「そか」(「」の部分は二本線で消している)以上三番。岡崎の信光坊が来られた。大坂本願寺が去る二日に自ら火を放って寺を焼き、船で退去したそうだ。
  • 8月8日 - 会下へ参った。勘大夫が来て舞った。静、四国落、清重の以上三番。
  • 8月9日 - 風が昼の間中吹き、東風で大風であった。午前10時頃より夜まで雨降り。
  • 8月10日、8月11日は記述無し。
  • 8月12日 - 鼓の稽古をした。
  • 「」 - 松平親定の所に月次の連歌があった。ていしゅ名たい正作。「」面影ちかし夜はの月。
  • 「」 - 記述無し。
  • 8月15日 - 会下へ参った。
  • 8月16日 - 相模国の北条氏政より、14日に浜松へ小笠原康広殿が御使いとして来られた。
  • 8月17日 - 夜より雨降り。夜まで降った。
  • 8月18日 - 夜雨降り。池野有助が来られた。
  • 8月19日 - 池野有助を振舞った。午後4時頃より雨降り。
  • 8月20日 - 午後6時頃まで雨降り。
  • 8月21日 - 会下へ参った。
  • 8月22日 - 記述無し。
  • 8月23日 - 点取りの連歌、発句我等作。先散て時雨をミする木葉哉。
  • 8月24日 - 夜より雨降り。
  • 8月25日 - 昨日同様雨降り。
  • 8月26日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 8月27日 - 記述無し。
  • 8月28日 - 夜、雨だった。
  • 8月29日 - 記述無し。
  • 8月30日 - 日待をした。点取りの連歌があった。

天正8年(1580年)9月[編集]

  • 9月1日 - 尾の光が長い彗星の小さなのが出現した。午後6時頃より雨降り。
  • 9月2日 - 土用に入った。今川氏真衆の蒲原助五郎が来られた。
  • 9月3日 - 会下へ参った。
  • 9月4日 - 記述無し。
  • 9月5日 - 土呂の本多九三郎と浜松衆の佐橋甚五郎とに犬公事があって浜松へ人を行かせた。初めて今夜、水鳥の後を追った。
  • 9月6日 - 高野聖が来られた。
  • 9月7日 - 記述無し。
  • 9月8日 - 午前6時頃より10時頃まで雨降り。
  • 9月9日 - 岡崎の三城坊が来られた。
  • 9月10日 - 午前6時頃より10時頃まで雨降り。
  • 9月11日 - 夜、雨だった。祈祷があった。鳥屋にて鴬が留まった。
  • 9月12日から9月14日まで記述無し。
  • 「」 - 午後4時頃より夜まで雨降り。大坊にて月次の連歌があった。庭の色時雨で山やうす紅葉。正佐。
  • 9月16日 - 記述無し。
  • 9月17日 - 初めて林にて水鳥を突いた。
  • 9月18日 - 午前6時頃に雨、夜まで降った。吉田の酒井忠次より、来る22日に浜松まで軍勢を配置するようにと連絡が来た。
  • 9月19日 - 鳥屋にて又鴬が留まった。
  • 9月20日 - 吉田の酒井忠次より、来たる22日の陣は延びたと連絡が来た。
  • 9月21日 - 三光院のじゅえんを振舞った。
  • 9月22日 - 記述無し。
  • 9月23日 - 水野忠重殿は刈谷へ領地を上(織田信長)様より下されたので入城した。音信に人を遣わした。
  • 9月24日 - 点取之俳諧の発句。家忠。おる袖の菊もくちはのあハせ哉。
  • 9月25日、9月26日は記述無し。
  • 9月27日 - 9月尽之連歌があった。発句。勘解由。神やもるうつろハぬ菊は井かき哉。
  • 9月28日 - 午後6時頃より雨降り。上坂という連歌士が岡崎の山岡忠兼にて興行をした。
  • 9月29日 - 午後4時頃まで雨降り。

天正8年(1580年)10月[編集]

  • 10月1日 - 山鷹へ出掛けた。
  • 10月2日 - 記述無し。
  • 10月3日 - 山鷹へ出掛けた。丹羽隼人が来られた。
  • 10月4日 - 鳥屋にて兄扈が留まった。
  • 10月5日 - 記述無し。
  • 10月6日 - 正午頃より夜まで雨降り。
  • 10月7日 - 鳥屋にて兄滬が留まった。
  • 10月8日 - 山鷹へ出掛けた。
  • 10月9日 - 鶉突きに出掛けた。来る12日の陣触れがあって吉田より折紙が届いた。
  • 10月10日 - 夢想の連歌があった。うへて待梅は久しき宿の松。
  • 10月11日 - 記述無し。
  • 10月12日 - 日駆けにて浜松へ出陣した。
  • 10月13日 - 城へ出仕した。初雪が降った。
  • 10月14日 - 小笠原広忠方へ振舞にて行った。
  • 10月15日 - 天野家次方へ振舞にて行った。
  • 10月16日 - 土呂の犬公事が済んだ。
  • 10月17日 - 鎌田まで出陣した。
  • 10月18日 - 鎌田に留まって宿泊した。三河の鳳来寺にて買った鹿毛の馬を引き連れて行った。
  • 10月19日 - 大坂すかに陣取った。
  • 10月20日 - 柵用の木を切った。
  • 10月21日 - 昨日同様、柵用の木を切った。
  • 10月22日 - 高天神城の際に陣を寄せた。
  • 10月23日 - 夜雨降り。
  • 10月24日 - 四方に、堀切を普請した。
  • 10月25日 - 塀の普請をした。
  • 10月26日 - 柵の作り付けをした。
  • 10月27日 - 家康より菲を戴いた。
  • 10月28日 - 家康は馬伏塚へ馬を入れられた。
  • 10月29日 - 酒井忠次を振舞った。
  • 10月晦日 - 家康より兵粮を戴いた。

天正8年(1580年)11月[編集]

  • 11月1日 - 堀の普請をした。
  • 11月2日 - 午前4時頃より雨降り。
  • 11月3日 - 夜雨が降った。本多忠次方へ振舞があって行った。
  • 11月4日 - 酒井忠次方へ振舞があって行った。
  • 11月5日 - 記述無し。
  • 11月6日 - 午後4時頃より雨降り。堀の普請をした。
  • 11月7日 - 午前10時頃まで雨降り,
  • 11月8日 - 堀の普請をした。
  • 11月9日 - 昨日同様、普請をした。
  • 11月10日 - 同じく普請をした。酒井忠次が国衆を振舞った。午後2時頃より雨、夜まで降った。
  • 11月11日 - 堀の普請をした。
  • 11月12日 - 橘ヶ谷砦の普請をした。
  • 11月13日 - 堀の普請をした。
  • 11月14日 - 昨日同様、普請をした。
  • 11月15日 - 午前10時頃より夜まで雨降り。同じく普請をした。
  • 11月16日 - 午後4時頃より雨降り。
  • 11月17日 - 同じく堀の普請をした。
  • 11月18日 - 同じく普請をした。
  • 11月19日 - 同じく堀の普請をした。
  • 11月20日 - 同じく普請をした。
  • 11月21日 - 同じく普請をした。午前6時頃より午後2時頃まで雨降り。
  • 11月22日 - 同じく普請をした。
  • 11月23日 - 同じく普請をした。
  • 11月24日 - 同じく普請をした。
  • 11月25日 - 同じく普請をした。
  • 11月26日 - 同じく普請をした。鷹狩に出掛けた。
  • 11月27日 - 同じく普請をした。鷹狩に出掛けた。
  • 11月28日 - 同じく普請をした。
  • 11月29日 - 同じく普請をした。

「* 11月晦日 - 同じく普請をした。」(この年の11月は29日までで30日はない。家忠は誤りに気付いたのか「」の部分を墨で塗り消している)。

天正8年(1580年)12月[編集]

  • 12月1日 - 同じく普請をした。
  • 12月2日 - 同じく普請をした。
  • 12月3日 - 同じく普請をした。
  • 12月4日 - 同じく普請をした。
  • 12月5日 - 酒井忠次の陣所で火事が起こった。杓の普請をした。
  • 12月6日 - 石川数正の陣所で火事が起こった。塀の普請をした。
  • 12月7日 - 建築材の普請をした。
  • 12月8日 - 午後2時頃より午後6時頃まで雨降り。昨日同様普請をした。
  • 12月9日 - 堀の普請をした。
  • 12月10日 - 午後2時頃より雨降り。雪は夜に降った。昨日同様普請をした。
  • 12月11日 - 午後4時頃まで雨降り。同じく普請をした。
  • 12月12日 - 深溝より、酒井宗右衛門が死去したという連絡が来た。
  • 12月13日 - 建築材の普請をした。
  • 12月14日 - 昨日同様普請をした。
  • 12月15日 - 萩原口砦の普請をした。
  • 12月16日 - 夜雨降り。東の風が荒く吹いた。
  • 12月17日 - 午後6時頃まで雨降り。風は4時頃まで吹いた。虎落柵の普請をした。
  • 12月18日 - 信長様の御使いが来られるというので陣所前まわりの掃除普請をした。
  • 12月19日 - 昨日同様普請をした。
  • 12月20日 - 信長様よりの御使い猪子高就福富秀勝長谷川秀一、西尾義次(西尾吉次)が陣場の巡視に来られた。各国衆は迎えのため小笠砦まで行った。家康が同道なされた。
  • 12月21日 - 御使い衆が陣場を巡見された。
  • 12月22日 - 御使い衆が帰られた。家康と酒井忠次が浜松まで同道なされた。
  • 12月23日 - 記述無し。
  • 12月24日 - 午後6時頃より零時頃まで雨降り。
  • 12月25日 - 萩原口砦東の普請をした。
  • 12月26日 - 昨日同様普請をした。
  • 12月27日 - 記述無し。
  • 「」 - 記述無し。
  • 「」 - 午後6時頃より雨降り。煩い気味である。
  • 12月晦日 - 酒井忠次は病気のため戦場へ来なかった。各国へ使者が行った。

天正9年(1581年)1月[編集]

  • 1月1日 - 午前6時頃まで雨降り。陣場を礼に歩いて廻った。世相は善い具合だ。
  • 1月2日 - 記述無し。
  • 1月3日 - 大野、緒川、刈谷衆が出陣した。普請初めをした。
  • 1月4日 - 昨日同様普請をした。
  • 1月5日 - 記述無し。
  • 1月6日 - 萩原口砦方面の普請をした。
  • 1月7日 - 昨日同様普請をした。
  • 1月8日 - 同じく普請をした。
  • 1月9日 - 同じく普請をした。
  • 1月10日 - 記述無し。
  • 1月11日 - 我々の陣所で火事を出した。火事を出した中間を処罰した。家康より酒樽、肴を戴いた。
  • 1月12日 - 午前8時頃より雨降り。
  • 1月13日 - 夜まで雨降り。
  • 1月14日 - 記述無し。
  • 「」
  • 1月16日 - 夜、北風が荒く吹いた。午前2時頃まで雨降り。
  • 1月17日、1月18日は記述無し。
  • 1月19日 - 午後10時頃より雨降り。
  • 1月20日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 1月21日 - 午前2時頃より雨降り。
  • 1月22日 - 午後4時頃まで雨降り。
  • 1月23日 - 記述無し。
  • 1月24日 - 普請をした。午前零時頃に仲間内の諍いがあり、佐野孫助が木俣竹蔵を斬って逃亡した。
  • 1月25日 - 昨日同様普請をした。
  • 1月26日 - 午前6時頃より午後4時頃まで雨降り。
  • 1月27日 - 普請をした。
  • 1月28日 - 午後6時頃より午前4時頃まで雨降り。萩原口砦の建築材の普請をした。
  • 1月29日 - 午後6時頃より零時頃まで雨降り。

天正9年(1581年)2月[編集]

  • 2月1日 - 普請「」。
  • 2月2日 - 記述無し。
  • 2月3日 - 己「」。
  • 2月4日 - 「」。
  • 2月5日 - 夜雨降り。
  • 2月6日 - 堀の普請をした。
  • 2月7日 - 昨日同様普請をした。
  • 2月8日 - 同じく普請をした。
  • 2月9日 - 昨日同様雨降り。
  • 2月10日 - 午後6時頃まで雨降り。萩原口砦の普請をした。
  • 2月11日 - 昨日同様普請をした。
  • 2月12日 - 夜雨降り。彼岸に入った。
  • 2月13日から2月16日まで記述無し。
  • 2月17日 - 午後10時頃より雨降り。
  • 2月18日 - 夜まで雨降り。
  • 2月19日から2月22日まで記述無し。
  • 2月23日 - 午後8時頃より雨降り。
  • 2月24日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 2月25日 - 夜雨降り。
  • 2月26日 - 記述無し。
  • 2月27日 - 萩原口砦の普請をした。
  • 2月28日から2月晦日まで記述無し。

天正9年(1581年)3月[編集]

  • 3月1日 - 記述無し。
  • 3月2日 - 夜雨降り。
  • 3月3日、3月4日は記述無し。
  • 3月5日 - 酒井忠次は病気が治って来られた。各国衆が迎えに行った。
  • 3月6日 - 記述無し。
  • 3月7日 - 午後6時頃より雨降り。
  • 3月8日 - 午後8時頃まで雨降り。
  • 3月9日から3月11日まで記述無し。
  • 3月12日 - 午後8時頃より雨降り。
  • 3月13日 - 昨日同様雨降り。
  • 3月14日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 3月15日 - 午後6時頃より雨降り。
  • 3月16日 - 午後10時頃まで雨降り。
  • 3月17日 - 着到状を書き付けた。
  • 3月18日 - 昨日の着到状は日が暮れてしまったので今日また書き付けた。
  • 3月19日 - 午後4時頃より雨降り。
  • 3月20日 - 午後6時頃まで雨降り。
  • 3月21日 - 記述無し。
  • 3月22日 - 午後8時頃に武田勢が高天神城の守りを開いて突出して来た。石川数正、我等、足助衆に所々で130人討たれた。その他の残党も所々で討たれた。首の数は600人余りであった。
  • 3月23日 - 山々を捜し歩いた。
  • 3月24日 - 各々が帰陣した。浜松まで行った。松平清宗の所にて振舞があった。
  • 3月25日 - 深溝へ日駆けにて帰陣した。
  • 3月26日 - 会下へ参った。
  • 3月27日、3月28日は記述無し。
  • 3月29日 - 東条の舞々が来た。午後2時頃より雨降り。烏帽子折を舞った。

天正9年(1581年)4月[編集]

  • 4月1日 - 午前10時頃まで雨降り。
  • 4月2日 - 記述無し。
  • 4月3日 - 岡崎の松崎殿、伊東殿が来られた。
  • 4月4日 - 午後2時頃より雨降り。
  • 4月5日 - 午前10時頃まで雨降り。家康が御上洛になるので安土への御土産として金、馬鎧を各国衆へ御割当てになられた。自分には三懸けの割当てがあった。
  • 4月6日 - 夜より雨降り。鎧の事で浜松に人を遣わした。
  • 4月7日 - 午後4時頃まで雨降り。
  • 4月8日 - 会下へ参った。
  • 4月9日 - 記述無し。
  • 4月10日 - 松崎と伊東が帰られた。岡崎の久志本法安が来られた。
  • 4月11日から4月12日まで記述無し。
  • 4月13日 - 舞々の勘大夫が来た。高館、かまたりの2番である。
  • 4月14日 - 記述無し。
  • 4月15日 - 会下へ参った。振舞をした。二位法印如雪が栗毛の馬をくれた。日待をした。
  • 4月16日 - 記述無し。
  • 4月17日 - 零時頃より雨降り。正午頃まで雨降り。
  • 4月18日 - 記述無し。
  • 4月19日 - 隠居に突然の病が生じた。午前6時頃より午後2時頃まで雨降り。
  • 4月20日 - 竹谷の松平清宗殿が来られた。正月20日にかんてんちへ上がり安土にて食人を喰った。声は殿御ほしいと鳴く。背は六尺二分で名は人魚という。
  • 4月21日 - 会下へ参った。
  • 4月22日 - 隠居が御病気なので久志本法安が来られた。
  • 4月23日 - 正午頃に雨降り。
  • 4月24日 - 鵜殿長信殿が来られた。
  • 4月25日 - 夜より雨、夜まで降った。
  • 4月26日、4月27日は記述無し。
  • 4月28日 - 午前8時頃より夜まで雨降り。
  • 4月29日 - 記述無し。
  • 4月30日 - 会下へ参った。

天正9年(1581年)5月[編集]

  • 5月1日 - 夜雨降る。月次の連歌があった。発句「」。五月雨の比や闘もる浅瀬川。
  • 5月2日 - 記述無し。
  • 5月3日 - 川狩に行った。
  • 5月4日 - 記述無し。
  • 5月5日 - 会下へ参った。
  • 5月6日 - 記述無し。
  • 5月7日 - 夜、雨降り。
  • 5月8日 - 竹谷と下ノ郷へ礼に行った。下ノ郷にて山「」。
  • 5月9日 - 午後10時頃より雨降り。桜井の舞々が来て、夜討曾我、勧進帳、烏帽子折を舞った。
  • 5月10日 - 知行地の年貢計算をした。午後2時頃まで雨降り。
  • 5月11日 - 昨日同様、知行地の年貢計算をした。祈禱があった。夜より雨降り。
  • 5月12日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 5月13日 - 記述無し。
  • 5月14日 - 馬鎧を四懸け仕立てた。いずれも出来が悪く、再度三懸け打ち直しをした。家康の所より、馬鎧の良否の検査に宇佐美という者が来た。
  • 5月15日 - 午前10時頃より雨降り。
  • 5月16日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 5月17日 - 川狩に行った。
  • 5月18日 - 竹谷の松平金左衛門尉殿が来られた。松平伊長の所に月次の連歌があった。発句、正佐。ほたるたたあらハれ出る玉藻哉。
  • 5月19日 - 正午頃より雨降り。
  • 5月20日 - 午前10時頃まで雨降り。
  • 5月21日 - 夕立があった。
  • 5月22日 - 午後8時頃より雨降り。
  • 5月23日 - 昨日同様雨降り。日待をした。野田より山桃が届いた。
  • 5月24日 - 午前6時頃まで雨降り。
  • 5月25日 - 午後8時頃より雨降り。
  • 5月26日 - 午前6時頃まで雨降り。又、午後8時頃より雨降り。
  • 5月27日 - 夜まで雨降り。
  • 5月28日 - 午前10時頃より午後2時頃まで雨降り。
  • 5月29日 - 記述無し。

天正9年(1581年)6月[編集]

  • 6月1日 - 岡崎へ行って、中島まで帰った。
  • 6月2日、6月3日は記述無し。
  • 6月4日 - 会下へ参った。
  • 6月5日 - 午後4時頃より雨降り。
  • 6月6日は欠損している。6月7「日」は欠損かどうか不明。6月8日は記述無し。
  • 6月9日 - 牧野原城々番のため、浜松へ日駆けにて行った。吉田へ立ち寄った。
  • 6月10日 - 松平清宗の所に振舞があり、城へ出仕して山口まで行った。
  • 6月11日 - 土用に入る。牧野原城々番へ西郷家員に替わって付いた。
  • 6月12日 - 攻撃を掛ける沙汰があって浜松へ聞きに遣った。
  • 6月13日 - 交替番が務める普請をした。攻撃は延期になったと連絡がきた。
  • 6月14日 - 牧野原城の定番衆を振舞った。
  • 6月15日 - 午後8時頃に夕立があった。
  • 6月16日 - 松平康親の所に振舞があって行った。
  • 6月17日、6月18日は記述無し。
  • 6月19日 - 牛久保の稲垣長茂の所へ振舞があって行った。
  • 6月22日まで欠損している。
  • 6月23日 - 牧野原城の定番衆を振舞った。
  • 6月24日 - 夜、雨降り。
  • 6月25日 - 今川氏真衆の岡部三郎兵の所へ振舞があって行った。
  • 6月26日 - 午前10時頃より午後8時頃まで雨降り。
  • 6月27日 - 浜松より、来る1日に三河の国衆が出撃するとの連絡が来た。
  • 6月28日 - 家康が見付まで出馬した。
  • 6月29日 - 記述無し。
  • 6月30日 - 牧野原城々番の番替りも来たので、馬伏塚まで行った。午前8時頃より雨降り。

天正9年(1581年)7月[編集]

  • 7月1日 - 砦場の相良まで行った。午前10時頃まで雨降り。
  • 7月2日 - 西郡の隠居が深溝にて死去した。午前10時頃より午後2時頃まで雨降り。
  • 7月3日 - 西郷家より松平伊長に祝言があった。砦普請は堀の普請である。
  • 7月4日 - 昨日同様普請をした。
  • 7月5日から7月7日まで原本が欠損している。
  • 7月8日 - 堀普請をした。
  • 7月9日 - 昨日同様普請をした。
  • 7月10日 - 同じく普請をした。午前10時頃より午後2時頃まで雨降り。
  • 7月11日 - 普請が出来上がって、馬伏塚まで帰陣した。
  • 7月12日 - 吉田まで帰陣した。午前10時頃より午前4時頃まで雨降り。
  • 7月13日 - 深溝まで来た。
  • 7月14日 - 施餓鬼会で会下へ参った。夜より雨降りで午後2時頃まで。
  • 7月15日 - 城で施餓鬼会をした。午前10時頃より正午頃まで雨降り。
  • 7月16日 - 午後4時頃より夜まで雨降り。
  • 7月17日から7月21日まで記述無し。
  • 7月22日 - 松平伊長の所に振舞があった。
  • 7月23日 - 記述無し。
  • 7月24日 - 雨降り。
  • 7月25日 - 小美へ川狩に行った。保母にて振舞があった。岡崎の松崎殿、伊東殿が来られた。
  • 7月26日 - 雨降りのため、深溝へ帰った。
  • 7月27日 - 記述無し。
  • 7月28日 - 会下へ参った。夜雨降り。
  • 7月29日 - 雨降り。会下の東堂が大洞山泉龍院に3年持ちで赴任された。鵜殿長信が来られた。

天正9年(1581年)8月[編集]

  • 8月1日 - 雨降り。
  • 8月2日、8月3日は記述無し。
  • 8月4日 - 雨降り。
  • 8月5日 - 中島へ堤防の築造に行った。
  • 8月6日 - 記述無し。
  • 8月7日 - 雨降り。崇福寺にて振舞があった。
  • 8月8日 - 昨日同様雨降り。
  • 8月9日 - 同じく雨降りで深溝へ帰った。永良の大原一平の所に振舞があった。
  • 8月10日 - 同じく雨降り。浜松へ馬鎧を持たせて行かせた。午後10時頃より午前2時頃まで大風大雨が吹き荒れて、所々で家が突発の天候悪化の間に損壊した。
  • 8月11日 - 所々で田地が損害を被って、大水が出た。
  • 8月12日 - 吉田より黒栗毛馬の掘出し物があった。
  • 8月13日 - 10日の風雨で宇谷川へ鮎が入った。
  • 8月14日 - 記述無し。
  • 8月15日 - 会下へ参った。
  • 8月16日 - 川狩に行った。
  • 8月17日 - 昨日同様川狩に行った。
  • 8月18日 - 雨降り。会下へ参った。彼岸に入った。
  • 8月19日 - 雨降り。川狩に行った。信長様が高野を御成敗なされるとの風説がある。
  • 8月20日 - 川狩に行った。
  • 8月21日 - 雨降り。松平喜平の所に月次の連歌があった。発句。ていしゆたい正佐。つきつきの花ははてなき千草哉。
  • 8月22日 - 雨降り。
  • 8月23日 - 雨降り。
  • 8月24日 - 雨降り。
  • 8月25日、8月26日は記述無し。
  • 8月27日 - 川狩にて夜振に行った。
  • 8月28日 - 川狩に行った。野田より半兵衛と若人が二人来て振舞をした。
  • 8月29日 - 雨降り。
  • 8月30日 - 中島へ堤防の築造に行った。

天正9年(1581年)9月[編集]

  • 9月1日 - 堤防の築造をした。牧野原城の松平甚太郎家忠(日記の家忠とは別人)殿が病気なので人を遣わした。
  • 9月2日 - 昨日同様堤防の築造をした。
  • 9月3日 - 同じく堤防築造。
  • 9月4日 - 同じく堤防築造。
  • 9月5日 - 雨降りにて深溝へ帰った。
  • 9月6日 - 中島へ行った。上方より大うす宗の座頭が来たとのことである。
  • 9月7日 - 堤防が出来て深溝へ帰った。
  • 9月8日 - 川狩に行った。足助へ人を遣った。先日噂に上った座頭に大うす宗の教義を聞いた。
  • 9月9日 - 記述無し。
  • 9月10日 - 松平小六右衛門尉の所に夢想の連歌があった。
  • 9月11日 - 祈祷があった。
  • 9月12日 - 雨降り。
  • 9月13日、9月14日は記述無し。
  • 9月15日 - 会下にて日待をした。山中の法蔵寺が来られた。
  • 9月16日 - 記述無し。
  • 9月17日 - 同玖長にて振舞があって行った。
  • 9月18日 - 鳥屋に鷂が留まった。
  • 9月19日 - 夜雨降り。
  • 9月20日 - 昨日同様雨降り。
  • 9月21日 - 松平甚太郎家忠が病気のため、牧野原城より東条城へ来られた。迎えに小江の松原まで行った。
  • 9月22日 - 林にて水鳥の後を追った。
  • 9月23日から9月24日まで記述なし。
  • 9月25日 - 酒井忠次より浜松城の普請に行くようにと連絡が来た。夜雨降り。
  • 9月26日 - 浜松へ日駆けにて行った。
  • 9月27日 - 城へ出仕した。松平清宗の所へ振舞があって行った。
  • 9月28日 - 鵜殿休庵方へ振舞があって行った。
  • 9月29日 - 浜松衆を振舞った。
  • 9月30日 - 内藤正成方へ振舞があって行った。普請を始めた。

天正9年(1581年)10月[編集]

  • 10月1日 - 昨日同様普請をした。
  • 10月2日 - 同じく普請をした。倉橋九左衛門が宮迫の菊泉坊の訴訟に勝った。
  • 10月3日 - 同じく普請をした。
  • 10月4日 - 同じく普請をした。本多重次の所へ振舞があって行った。
  • 10月5日 - 同じく普請をした。本多忠勝の所へ振舞があって行った。
  • 10月6日 - 雨降り。家康が各国衆に御振舞をなされた。
  • 10月7日 - 同じく普請をした。浜松衆を振舞った。
  • 10月8日 - 同じく普請をした。鵜殿長信の所へ振舞があって行った。
  • 10月9日 - 同じく普請をした。二位法印如雪方へ振舞があって行った。
  • 10月10日 - 同じく普請をした。雨降り。鵜殿重長の所へ振舞があって行った。
  • 10月11日 - 同じく普請をした。松平紀伊守家忠の所へ振舞があって行った。
  • 10月12日 - 同じく普請をした。浜松衆を振舞った。
  • 10月13日 - 同じく普請をした。雨降り。松平清宗の所へ振舞があって行った。
  • 10月14日 - 普請が出来上がった。
  • 10月15日 - 深溝へ日駆けにて帰った。
  • 10月16日 - 記述なし。
  • 10月17日 - 逆川にて鵺が留まった。
  • 10月18日 - 会下へ参った。午後六時頃雨降り。林にて水鳥を突いた。
  • 10月19日、10月20日は記述なし。
  • 10月21日 - 会下へ参った。
  • 10月22日 - 雨降り。刈谷の水野忠重殿へ人を行かせた。
  • 10月23日 - 記述なし。
  • 10月24日 - 東条城の松平甚太郎家忠の病気見舞に行った。
  • 10月25日 - 記述なし。
  • 10月26日 - 永良へ鷹狩に行った。
  • 10月27日 - 崇福寺文師の所へ振舞があって行った。長池にて白縄引きの漁をした。鯉を五十二本取った。
  • 10月28日 - 昨日同様、白縄引きの漁をした。鯉を十二本取った。松平権兵衛尉の所に、振舞があって行った。
  • 10月29日 - 雨降り。野田の座頭が来て平家物語を語った。鯉を家中の親類衆に振舞った。

天正9年(1581年)11月[編集]

  • 11月1日 - 東条城の松平甚太郎家忠が死去した。午後8時頃より雨降り。田原より鷂を2羽とサシバ1羽を網でとらえて送ってきた。伊東金五郎。
  • 11月2日 - 雨降り。
  • 11月3日 - 記述なし。
  • 11月4日 - 東条松平甚太郎家忠の弔いに行った。
  • 11月5日 - 刈谷の水野忠重殿より使者が来た。
  • 11月6日、11月7日は記述なし。
  • 11月8日 - 雨降り。
  • 11月9日から11月13日まで記述なし。
  • 11月14日 - 松平甚太郎家忠の死去に伴って東条より妹(ちいは)が引っ越して来た。安土の西尾義次殿が吉良へと通られたので海谷へ酒迎いに行った。
  • 11月15日 - 大坊へ振舞があって行った。浜松より竹谷の松平清宗殿が来られた。
  • 11月16日 - 岡崎より松崎殿が来られた。
  • 11月17日 - 記述なし。
  • 11月18日 - 雨降り。松平伊長の所に振舞があった。
  • 11月19日 - 松平親定の所に振舞があった。
  • 11月20日 - 松平喜平の所に振舞があった。
  • 11月21日 - 会下へ参った。
  • 11月22日 - 松平定広の所に振舞があった。
  • 11月23日 - 雨降り。松平小六右衛門尉の所に振舞があった。永良へ鷹狩に行った。
  • 11月24日 - 深溝へ帰り、東条衆が見舞に来られた。
  • 11月25日 - 永良へ行った。
  • 11月26日 - 鷹狩に出掛けた。
  • 11月27日 - 長池にて白縄を引かせた。鯉を四本取った。
  • 11月28日 - 鷹の番の交配に深溝へ帰った。
  • 11月29日 - 記述なし。
  • 11月30日 - 米津半介が坂崎の石塚にて鷲が落とした雁を拾って遣ってきた。

天正9年(1581年)12月[編集]

  • 12月1日 - 会下へ参った。
  • 12月2日 - 記述なし。
  • 12月3日 - 小寒に入った。隠入院、松平清善殿、鵜殿長信が来られた。
  • 12月4日から12月6日まで記述なし。
  • 12月7日 - 中島へ行った。午後6時頃より雨降り。
  • 12月8日 - 昨日同様雨降り。深溝へ帰った。
  • 12月9日から12月12日まで記述なし。
  • 12月13日 - 雨降り。松平伊長の所に振舞があった。
  • 12月14日 - 松平康定の所に振舞があった。牧野原城々番のために、人夫役を出した。
  • 12月15日 - 牧野原城々番のため、本坂を通って日駆けにて浜松へ行った。家康は馬伏塚へ鷹狩に行かれた。
  • 12月16日 - 鵜殿重長の所へ振舞があって行った。掛川まで行った。
  • 12月17日 - 雨降り。牧野原城々番に西郷家員に替わって付いた。小笠原安次の所へ振舞があって行った。
  • 12月18日 - 安土の西尾義次は、信長御自らによる、来春駿河甲斐への御出陣計画があるので、兵粮を当牧野原城へ移し入れて相良へ行かれた。送りに行った。
  • 12月19日 - 松平康親の所へ振舞があって行った。
  • 12月20日 - 牧野原城定番衆を振舞った。
  • 12月21日 - 交替番でつとめる普請で、門を建てる木を大井川より届けた。
  • 12月22日 - 昨日同様、木を届けた。掛川より大工が二人来た。
  • 12月23日 - 小笠原安次の所へ振舞があって行った。
  • 12月24日 - 牧野原城定番衆を振舞った。晩に松平康親の所にて風呂振舞があった。
  • 12月25日 - 雨降り。
  • 12月26日 - 牧野原城定番衆を振舞った。深溝衆内での交替で二番手の衆が来た。去る二十四日に中島にて隼が留まったとの連絡が来た。
  • 12月27日 - 門を建てた。
  • 12月28日 - 牧野原城定番衆を振舞った。
  • 12月29日 - 小笠原安次の所に振舞があった。雨降り。

天正10年(1582年)1月[編集]

  • 三河は大水大風に三度も見舞われて、世相は良くない。
  • 1月1日 - ユカケサシムスヒテ敵ハホロフレバソハコノカタキモ未来ニモナシ。
  • 1月2日 - ユカケコソ十ノレンケノ花ナラハムスヒテヒラキ道モスクナリ。
  • 1月3日 - 松平康親の所に振舞があった。晩に牧野原城定番衆を振舞った。
  • 1月4日 - 雨降り。
  • 1月5日 - 牧野康成を振舞った。
  • 1月6日 - 牧野康成の所に振舞があって行った。晩に都筑助大夫の所に風呂振舞があった。
  • 1月7日 - 小笠原安次の所に振舞があった。城番を二連木衆と替わって池田まで行った。西風が吹いて渡し船がなかった。霰が降った。
  • 1月8日 - 浜松へ行った。城へ年頭の礼を申し上げて、奏者本多忠勝「」越候。
  • 1月9日 - 深溝へ帰った。
  • 1月10日 - 年頭の礼を申し述べる人たちが来た。
  • 1月11日 - 祈祷があった。中島にて留まった隼が足緒を強請り解いて逃げた。
  • 1月12日 - 雨降り。松平親定の所へ振舞があって行った。
  • 1月13日 - 佳例の連歌があった。発句。康定。春をへん行末とをし宿の松。
  • 1月14日 - 竹谷の松平清善・清宗父子が来られた。家康は岡崎へ御越しになった。
  • 1月15日 - 岡崎へ行った。
  • 1月16日 - 息子(松平忠利)が生まれて深溝へ帰った。
  • 1月17日 - 松平喜平の所に振舞があって行った。雨降り。
  • 1月18日 - 会下へ礼に行った。
  • 1月19日 - 竹谷へ礼に行った。
  • 1月20日 - 記述なし。
  • 1月21日 - 子の名は松平清善が付けられた。「お猿」。
  • 1月22日 - 祝言悦びに竹谷の松平清善、同清宗、同家清鵜殿長信、浜松衆の市村次左衛門鵜殿重長、緒川より竹内弥次、同弥三熊谷新三が来られた。祝いに何れも金覆輪で、清宗から太刀、清宗から脇差、長信から脇差、弥次から脇差を戴き、こちらから市村に脇差、重長に馬を進呈した。その夜、竹谷へ踊りがあって行き、家清に長刀を進呈した。
  • 1月23日 - 市村次左衛門、鵜殿重長が帰った。
  • 1月24日 - 記述なし。
  • 1月25日 - 冬より以来の初雪が降った。
  • 1月26日 - 家康の大鷹が繋ぎを断ち切って逃げたので、鵜殿重長が来て捜しに行った。
  • 1月27日 - 昨日同様、鷹を捜しに浜松の小姓衆が来られた。振舞をした。
  • 1月28日 - 御鷹は吉良に居て岡崎へ届けたとの事である。
  • 1月29日 - 記述なし。
  • 1月30日 - 又、別の鷹が、どこかへ飛んで行ってしまった。

天正10年(1582年)2月[編集]

  • 2月1日 - 鵜殿重長が来て、鷹を捜しに行った。中島へ浜松の鷹匠木村が来た。隼が中島へ番に行った。
  • 2月2日 - 昨日同様、鷹を捜させた。家康より鷹狩の雁を戴いた。
  • 2月3日 - 同じく鷹を捜した。酒井忠次より近日中に境目の城普請の働きがあると連絡してきた。雁の御礼に浜松へ松平小六右衛門が行った。
  • 2月4日 - 又、鷹匠の木村が来た。今日を限って鷹を捜してくれと要請があった。
  • 2月5日 - 鵜殿重長が浜松へ帰った。浜松へ遣わした松平小六右衛門が帰った。
  • 2月6日 - 酒井忠次より、信濃の木曽義昌が味方に加わる事が決定的となり、信長様が近日中に御自ら御出陣なさるので、境目の城普請の件は延期となった。出陣の用意をして、決定次第出発するようにと連絡が来た。西郷新右衛門が来た。
  • 2月7日 - 雨降り。浜松より御所柿、小練柿の接ぎ穂を取りに来たので差し上げた。松崎殿、伊東殿が来られた。
  • 2月8日 - 松平親定の所に振舞があった。隼が病気になって中島より来た。
  • 2月9日 - 松平定広の所に振舞があった。会下へ参った。
  • 2月10日 - 家康より戴いた鷹狩の雁を各々に振舞った。岡崎の舞々勘大夫が来た。烏帽子折、敦盛の二番。
  • 2月11日 - 松平伊長の所に振舞があった。奥野山の内へと世を捨てて菅沼忠久が移られたそうだ。桜井の舞々が来た。満仲、次信。
  • 2月12日 - 雨降り。松崎と伊東が帰られた。信濃の情勢が大きく変化し、近日中に駿河方面に御陣を構えられると酒井忠次から連絡があった。石川数正の所から、来る16日に浜松に行くようにと連絡が来た。
  • 2月13日 - 雨降り。
  • 2月14日 - 会下へ参った。
  • 2月15日 - 雨降り。
  • 2月16日 - 徒歩の侍衆と人夫役を出発させた。
  • 2月17日 - 本坂を日駆けにて浜松まで出陣した。昨日16日に敵が小山城を捨てたそうだ。
  • 2月18日 - 山口まで到着した。家康は掛川まで御着きになった。
  • 2月19日 - 家康は牧野原城まで、諸軍勢は金谷に陣取った。
  • 2月20日 - 田中城まで出撃して戦った。
  • 2月21日 - 当目坂を越えて持船に陣取った。家康や遠州衆は駿府に陣取った。
  • 2月22日 - 雨降り。
  • 2月23日 - 彼岸に入った。持船城の攻め道具竹束を結んで作り、橋を寄せた。
  • 2月24日 - 本営の駿府へ行った。
  • 2月25日 - 記述なし。
  • 2月26日 - 安土の西尾義次殿が上方へ帰られた。見送りをして、田中城を攻撃した。
  • 2月27日 - 雨降り。持船城の開城交渉が行なわれた。
  • 2月28日 - 記述なし。
  • 2月29日 - 持船城を明け渡した朝比奈信置久能城まで退いた。送りに行って来た。

天正10年(1582年)3月[編集]

  • 3月1日 - 江尻の穴山梅雪が味方になる事が決まった。
  • 3月2日、3月3日は記述なし。
  • 3月4日 - 穴山梅雪が家康へ会見での進上物。太刀目録、鷹1羽、馬1疋。家康よりは刀、鉄砲100挺を御出しになった。北条衆も吉原まで来て弓を進上して来た。
  • 3月5日 - 酒井忠次は家康と同様に駿府へ陣替をした。江尻には本多重次が行った。牧野衆、本多忠勝、大須賀康高、掛川衆、田原衆は蒲原へ陣替をした。
  • 3月6日 - 家康より江川酒を戴いた。
  • 3月7日 - 雨降り。興津まで陣替をした。
  • 3月8日 - 万沢まで陣替をした。家康が興津に御入りになった。
  • 3月9日 - 中将殿(織田信忠)様は6日に甲府に攻め込みなされ、武田勝頼は山中へ逃げたとの事だ。法華寺のある身延まで陣替をした。家康は万沢まで御越しになった。
  • 3月10日 - 市川まで陣を寄せた。家康も万沢より市川まで御越しになった。
  • 3月11日 - 雨降り。家康が穴山梅雪を同道して甲府にいる中将(信忠)の所へ御越しになった。武田勝頼父天目山という所にて山中へ逃亡していた所を、滝川一益の手兵が討ち取って首級がもたらされた。
  • 3月12日 - 雨降り。
  • 3月13日 - 西尾義次殿が上方より御越しになった。陣家を作った。うやにて取った馬と人を穴山梅雪の所へ返した。
  • 3月14日 - 甲府と甲府善光寺の見物に行った。
  • 3月15日、3月16日は記述なし。
  • 3月17日 - 上(織田信長)様が信州諏訪まで御着きになったので家康が御越しになった。
  • 3月18日 - 記述なし。
  • 3月19日 - 上様が三河を通って御帰陣なされるので、駿河、遠州に御茶屋や御陣所を作ることになった。酒井忠次衆は本栖に行くようにと連絡が来た。
  • 3月20日 - 轡。
  • 3月21日 - 雨降り。ふくみ内のはみかへし外の同。芝すりくはんりうつおもかいとをし。かかみ十もんし。ふくへ。
  • 3月22日 - 雨降り。人数を揃えて本栖へ遣わした。
  • 3月23日 - 本栖へ行った。
  • 3月24日 - 普請の道具を取り揃えた。家康が昨日諏訪より御帰りになったとの事だ。
  • 3月25日 - 小家を作った。
  • 3月26日 - 昨日同様小家を作った。伊東殿。さほ上七寸。下一尺七寸。
  • 3月27日 - 同じく小家を作った。松崎殿。上五寸二分。下一尺二寸二分。
  • 3月28日 - 雨降り。
  • 3月29日 - 普請をした。かけ日ほれ日すはまかたてからあなをへわき。
  • 3月30日 - 昨日同様普請をした。あふみ廿九をか子浪そき浪すけ并ちやう子くつこみくつおきかく。

天正10年(1582年)4月[編集]

  • 4月1日 - 大久保忠隣より西尾義次殿を各国衆にて振舞うようにと連絡が来た。夜雨降。
  • 4月2日 - 雨降り。普請をした。
  • 4月3日 - 信長様が甲府まで御越しになったそうだ。
  • 4月4日 - 西尾義次殿を振舞った。同じく普請をした。
  • 4月5日 - 女坂に御茶屋を建てた。
  • 4月6日 - 夜雨降り。南風が吹く。普請をした。
  • 4月7日 - 昨日同様普請をした。
  • 4月8日 - 同じく普請をした。奉行衆を振舞った。
  • 4月9日 - 国衆を振舞った。女坂の普請に行った。
  • 4月10日 - 雨降り。上様が甲府より右左口まで御成になった。
  • 4月11日 - 時鳥の初音を聞いた。上様が本栖まで御成になった。三河衆は山々や谷の修理に掛り切りとなって通し申し上げた。大宮まで帰陣した。
  • 4月12日 - 上様は大宮まで御越しになった。三川衆は駿府まで来られた。
  • 4月13日 - 江尻まで御成になった。浜松まで来た。
  • 4月14日 - 田中まで御成になった。深溝まで来た。
  • 4月15日 - 掛川まで御成になった。
  • 4月16日 - 浜松まで御成になったとの事だ。
  • 4月17日 - 吉田まで御成になった。雨降り。
  • 4月18日 - 知立まで御成になったとの事だ。会下へ参った。
  • 4月19日 - 雨降り。上様は援助しているキリシタン宗門者が献上申し上げた黒人の男を御連れになっておられる。体は墨のように黒く、身の丈は六尺二寸(182センチ)。名前は弥介という。
  • 4月20日 - 記述なし。
  • 4月21日 - 会下へ参った。
  • 4月22日 - 日待をした。
  • 4月23日 - 伊勢の御師が来た。
  • 4月24日 - 野田より材木が吉田まで来た。
  • 4月25日 - 三河にて夜、初時鳥が鳴いた。垢石まで材木が来た。
  • 4月26日 - 記述なし。
  • 4月27日 - 材木が垢石より届いた。
  • 4月28日 - フチ。弟の三尺一寸。兄の二尺七寸。雁の五寸。鶴の三寸上六寸。鴨五寸六寸。
  • 4月29日 - 雨降り。

天正10年(1582年)5月[編集]

  • 5月1日 - 夜雨降り。会下へ参った。
  • 5月2日 - 雨降り。
  • 5月3日 - 雨降り。
  • 5月4日 - 浜松へ日駆けで行った。吉田に端午の節句の礼を申し上げて通過した。舞阪から雨降り。松平清宗の所に振舞があった。
  • 5月5日 - 雨降り。城へ出仕した。家康より本多忠勝が御使いとして、三河国衆の面々は来ないのに自分だけが来たので満足に思われているとの仰せが伝えられた。板倉勝重の所に振舞があった。
  • 5月6日 - 深溝へ帰った。
  • 5月7日 - 上様から各三河衆、遠州国衆に御兵粮を下された。自分は百二十俵を岡崎にて請け取った。
  • 5月8日 - 家康の安土への御出発は来る11日頃で、餞別に金の貨幣1枚を進上する。
  • 5月9日 - 脇差の熨斗付が出来た。小久田彦左衛門、金二両二分、但し打ち鮫、巫鳥目、脛巾は除いて、あれこれ規格外れの刀である。
  • 5月10日 - 記述なし。
  • 5月11日 - 家康が安土に御上りのために岡崎まで御越しになった。平岩親吉に銭200疋と小玉銀2つ、掛川の阿部正勝に銭200疋。
  • 5月12日 - 夜雨。午前6時頃雨降り。御見送りに小さかまで行った。御餞別に金の貨幣1枚を進上した。
  • 5月13日 - 東堂が大洞山泉龍院から御越しになった。会下へ参った。
  • 5月14日 - 雨降り。一庵が来られた。
  • 5月15日 - 一庵が御越しになったので、松平康定の所にて興行の発句。ていしゅ。とふ人になをさみたれよけふの宿。
  • 5月16日 - 雨降り。一庵を振舞った。
  • 5月17日 - 松平喜平の所にて一庵への振舞があった。
  • 5月18日 - 雨降り。一庵が御帰りになった。安土へ御音信のために飛脚を行かせた。
  • 5月19日 - 記述なし。
  • 5月20日 - 記述なし。
  • 5月21日 - 会下へ参った。夕立、雷。安土より鵜殿重長の手紙が来た。家康は去る15日に安土へ御越しになった。御山にて上様(信長)による御振舞があった。18日にも家康の御膳を上様御自身が御据になったそうだ。各御供の衆にも御手ずから、ふりもみこがしを御引きになったそうだ。御帷子を二つずつ下され、その内の一つは女房衆の土産として紅の生絹であるとの事だ。
  • 5月22日 - 岡崎より伊東と松崎が来られた。奥州の伊達輝宗の所より上様へ御馬の進上があった。丈は十寸八分あるそうだ。「浪かけ」と言って海より上がったそうだ。
  • 5月23日 - 大刀のために作った熨斗付が出来た。金五両一分、あれこれ規格外れの刀である。
  • 5月24日 - 安土へ行った飛脚が帰って来た。去る21日に御上洛との事が決定したそうだ。雨降り。
  • 5月25日 - 雨降り。吉田の酒井忠次より、大河内小左衛門が弓法を教えに来られた。
  • 5月26日 - 雨降り。家康より直札を戴いた。
  • 5月27日 - 記述なし。
  • 5月28日 - 安土へ飛脚が行った。
  • 5月29日 - 雨降り。

天正10年(1582年)6月[編集]

  • 6月1日 - 昨日同様雨降り。会下へ参った。
  • 6月2日 - 松崎と伊東が来られた。東条妹が病気で衛七殿が来られた。山桃、初茄子が西尾、永良より来た。
  • 6月3日 - 雨降り。京都にいる酒井忠次の所より、家康が御下りなさったら、西国へ御出陣があると連絡が来た。旗指物は上方の諸国では、大きな旗はやめて撓いになっているとの事で、その辺りの事情を連絡して来た。午後6時頃、京都にて上様に明智光秀、津田信澄が謀反を企てて上様は御自害なされた旨、大野より連絡が来た。瓜の初穂が安部三郎殿より届いた。
  • 6月4日 - 明智光秀が謀反である。信長御父子の件は極秘とするよう岡崎と緒川より連絡が来た。家康は堺におられたそうだ。岡崎へ行った。家康は伊賀から伊勢の地を御退きになって、大浜へ御上陸なさったので町まで御迎えに行った。穴山梅雪は切腹をした。途中で津田信澄殿の謀反は単なる風説だと知った。此方の軍勢に雑兵共200人余を討たせた。
  • 6月5日 - 城へ出仕した。早々に帰って出陣の用意をするようにと仰せられた。伊勢、尾張より家康へ御使いが来た。同盟の件である。深溝へ帰った。
  • 6月6日 - 雨降り。日待をした。来る8日に東三河の国衆は岡崎へ御寄り集まりになる。この辺りの国衆については決定次第伝えると、酒井忠次より連絡が来た。
  • 6月7日 - 刈谷の水野忠重殿が京都にて討死なされたそうだ。
  • 6月8日 - 津田信澄を、去る5日に織田信孝殿が御成敗になったそうだ。
  • 6月9日 - 雨降り。西への出陣が少し延びたとの連絡が来た。水野忠重殿の事については、京都に隠れていて帰って来るそうだ。
  • 6月10日 - 明後日の12日に出陣せよと酒井忠次より連絡が来た。
  • 6月11日 - 雨降り。人夫役を出した。出陣が14日まで延びたとの事で、人夫役を呼び返した。水野忠重殿が刈谷へ御越しになったそうだ。
  • 6月12日 - 雨降り。
  • 6月13日 - 雨降り。岡崎まで行った。城へ出仕した。
  • 6月14日 - 鳴海まで行った。
  • 6月15日 - 雨降り。本営へ出向いた。明智光秀を京都にて、織田信孝殿、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興が討ち取ったと、伊勢神戸より注進があった。
  • 6月16日 - 雨降り。明日17日に津島へ陣替があるという連絡が来た。
  • 6月17日 - 酒井忠次に属する配下の衆だけで津島へ陣替をした。
  • 6月18日 - 記述無し。
  • 6月19日 - 羽柴秀吉の所より、上方を平定したので早々に帰陣するようにとの申し入れが来て、津島より鳴海まで帰った。
  • 6月20日 - 本営へ出向いた。
  • 6月21日 - 家康、同様に遠州衆、東三河衆が帰陣した。水野忠重より陣所へ音信があった。
  • 6月22日 - 土用に入った。深溝まで帰った。
  • 6月23日 - 吉田へ使いを行かせた。
  • 6月24日 - 東への出陣のため人夫役を出した。
  • 6月25日 - 記述なし。
  • 6月26日 - 雨降り。浜松まで日駆けにて行った。城へ出仕した。
  • 6月27日 - 昨日同様雨降り。大水が出た。信濃の件で酒井忠次が信濃に入られる事を談合した。
  • 6月28日 - 同じく雨が降った。家康が雛のこのりを下さった。
  • 6月29日 - 同じく雨降り。
  • 6月30日 - 同じく雨降り。

天正10年(1582年)7月[編集]

  • 7月1日、7月2日は記述なし。
  • 7月3日 - 家康は掛川まで、我々は山口まで到着した。
  • 7月4日 - 家康は田中まで、我々は牧野原城まで到着した。
  • 7月5日 - 家康は江尻まで、我々は駿府まで着陣した。
  • 7月6日 - 清水まで到着した。
  • 7月7日 - 家康は大宮、我々は金宮まで着いた。
  • 7月8日 - 家康は精進まで、我々は雨降りで逗留した。
  • 7月9日 - 家康は甲府まで、我々は精進まで着陣した。
  • 7月10日 - 甲府の善光寺まで。
  • 7月11日 - 記述なし。
  • 7月12日 - 鉄砲衆信濃「」田「」へ二人「」「」。
  • 7月13日、7月14日は記述なし。
  • 7月15日 - 酒井忠次による信濃侵攻の件に決着がついて、来る17日に台ヶ原、白須まで着陣せよとのことである。
  • 7月16日 - 記述なし。
  • 7月17日 - 台ヶ原まで陣替をした。
  • 7月18日 - 雨降り、信州の諏訪まで着陣した。
  • 7月19日 - 記述なし。
  • 7月20日 - 雨降り。
  • 7月21日 - 記述なし。
  • 7月22日 - 高島城との和平調停が決裂して攻撃を行なった。
  • 7月23日 - 雨降り。
  • 7月24日 - 形原衆の陣取っているところへ、諏訪勢が夜討ちをかけた。
  • 7月25日 - 記述なし。
  • 7月26日 - 小屋の際に忍びの斥候を配置して、自分も人を討ち取った。
  • 7月27日 - 記述なし。
  • 7月28日 - 雨降り。
  • 7月29日 - 記述なし。

天正10年(1582年)8月[編集]

  • 8月1日 - 雨降り、相州衆が出撃して来た。指図があって白須まで引き取った。
  • 8月2日 - 記述なし。
  • 8月3日 - 乙骨まで大急ぎで進出して陣を張った。
  • 8月4日 - 記述なし。
  • 8月5日 - 雨降り。
  • 8月6日 - 敵の人数2万余、味方の人数2000余、相州の北条氏直が攻め寄せて来たので新府まで引き下がった。敵が駆け付けてきて一里程離れた場所に陣取った。古府中の味方が少々駆け付けて来た。
  • 8月7日 - 敵の布陣が前面に押し出した。味方の布陣も新府山へ進み出た。敵が半里程離れた所に陣取った。
  • 8月8日 - 家康が古府中より新府へ物見のために移られて一緒の陣となった。
  • 8月9日 - 記述なし。
  • 8月10日 - 家康が陣を新府城へ寄せられた。
  • 8月11日 - 新府の向かいに新城を普請した。
  • 8月12日 - 小口番に当たった。都留郡より、伊豆の北条氏忠が古府中の近くの黒駒まで出撃してきた。古府中の留守居衆が駆け合って戦い、先駆けの者たちの300人余を討ち取った。
  • 8月13日 - 物見の番に当たった。
  • 8月14日 - 雨降り。瘧をふるい患った。一日置きで。
  • 8月15日 - 小口番に当たった。
  • 8月16日 - 味方の諸軍へ鉄砲揃えがあった。
  • 8月17日 - 雨降り。
  • 8月18日、8月19日は記述なし。
  • 8月20日 - 家康が甲府へ巡視に行かれた。
  • 8月21日 - 記述なし。
  • 8月22日 - 小口番に当たった。
  • 8月23日 - 家康より最上の茶を戴いた。
  • 8月24日 - 記述なし。
  • 8月25日 - 瘧慄(マラリア?)が治った。
  • 8月26日 - 向いの砦の番をした。一昼夜の番である。
  • 8月27日 - 小口番に当たった。
  • 8月28日 - 記述なし。
  • 8月29日 - 敵が陣取っている近所で刈田働きをした。雨降り。
  • 8月30日 - 記述なし。

天正10年(1582年)9月[編集]

  • 9月1日 - 家康より胡桃を戴いた。敵の物見が来たので酒井忠次配下の寄子衆が攻撃を加えた。
  • 9月2日 - 城へ出仕した。神者。
  • 9月3日 - 雨降り。
  • 9月4日 - 小口番に当たった。
  • 9月5日 - 雨降り。刈谷衆が出陣した。
  • 9月6日 - 記述なし。
  • 9月7日 - 砦番に当たった。
  • 9月8日 - 記述なし。
  • 9月9日 - 雨降り。
  • 9月10日 - 小口番に当たった。
  • 9月11日 - 瘧慄が再発した。
  • 9月12日 - 小家を作り直した。
  • 9月13日 - 雨降り。
  • 9月14日 - 記述なし。
  • 9月15日 - 小口番に当たった。
  • 9月16日 - 記述なし。
  • 9月17日 - 物見番に当たった。伏兵があって負傷者が1人出た。鱸小吉である。
  • 9月18日 - 砦番に当たった。
  • 9月19日 - 雨降り。
  • 9月20日 - 雨降り。
  • 9月21日 - 小口番に当たった。
  • 9月22日から9月24日まで記述なし。
  • 9月25日 - 雨降り。総攻撃があり、敵も味方も負傷者が出た。
  • 9月26日 - 記述なし。
  • 9月27日 - 2、3日中に一戦あるとの御触れがあった。
  • 9月28日 - 雨降り。小口番に当たった。
  • 9月29日 - 初鮭で城にての御振舞があった。
  • 9月30日 - 敵が通り道を普請した。

天正10年(1582年)10月[編集]

  • 10月1日 - 記述なし。
  • 10月2日 - 夜、大須賀康高の陣所にて火事が起こった。
  • 10月3日 - 記述なし。
  • 10月4日 - 小口番に当たった。
  • 10月5日 - 記述なし。
  • 10月6日 - 雨降り。御岳小屋へ鉄砲衆が番のために1人ずつ行った。
  • 10月7日 - 砦番に当たった。
  • 10月8日、10月9日は記述なし。
  • 10月10日 - 小口番に当たった。
  • 10月11日、10月12日は記述なし。
  • 10月13日 - 雨降り。
  • 10月14日 - 記述なし。
  • 10月15日 - 雨降り。城にて振舞があった。
  • 10月16日 - 小口番に当たった。
  • 10月17日 - 記述なし。
  • 10月18日 - 砦番に当たった。
  • 10月19日、10月20日は記述なし。
  • 10月21日 - 雨降り。小口番に当たった。
  • 10月22日 - 西風が荒く吹いた。
  • 10月23日、10月24日は記述なし。
  • 10月25日 - 雨降り。
  • 10月26日、10月27日は記述なし。
  • 10月28日 - 城へ出た。雨降り。小口番に当たった。
  • 10月29日 - 北条氏直は和睦が調ったので退いた。形勢は都留郡を此方側へ渡すことになった。人質に酒井家次を出し、敵からは大道寺直昌山角直繁が来る。
  • 10月30日 - 人質交換のために働いた。

天正10年(1582年)11月[編集]

  • 11月1日、11月2日、11月3日は記述なし。
  • 11月4日 - 右左口方面に砦普請をしていたら、明日甲府の善光寺まで陣替せよという連絡が来た。
  • 11月5日 - 善光寺まで行った。
  • 11月6日 - 向山まで陣替をした。
  • 11月7日 - 勝山砦の普請をした。
  • 11月8日 - 雨降り。
  • 11月9日 - 普請をした。
  • 11月10日 - 昨日同様普請をした。
  • 11月11日 - 雨降り。同じく普請をした。
  • 11月12日 - 同じく普請をした。俳諧之発句、元日。春やしる今日から梅の匂ひ哉。十月。ひろ袖や誰ふところも神無月。九月。おしめとも人こふ(う)菊のさかり哉。同月。おる袖も菊はくちはのあはせ哉。三月。名にしをははおる人ほへよ犬櫻。四月。行舟の夜の山てり時鳥。
  • 11月13日 - 同じく普請をした。
  • 11月14日 - 同じく普請をした。
  • 11月15日 - 雨降り。同じく普請をした。
  • 11月16日 - 同じく普請をした。
  • 11月17日 - 夜雨降り。同じく普請をした。
  • 11月18日 - 同じく普請をした。
  • 11月19日 - 同じく普請をした。
  • 11月20日 - 同じく普請をした。家康より雁を戴いた。
  • 11月21日 - 同じく普請をした。
  • 11月22日 - 同じく普請をした。
  • 11月23日 - 同じく普請をした。
  • 11月24日 - 同じく普請をした。夏そひく海上かたの興津すに鳥はすたけと君ハ音せす
  • 11月25日 - 同じく普請をした。
  • 11月26日 - 同じく普請をした。雨降り。夜は雪になった。
  • 11月27日 - 同じく普請をした。家康より酒を戴いた。
  • 11月28日 - 同じく普請をした。雨降り。
  • 11月29日 - 同じく普請をした。雨降り。

天正10年(1582年)12月[編集]

  • 12月1日、12月2日は記述なし。
  • 12月3日 - 左右口に陣替をした。文禄二年卯月八日。賦何人連歌。卯の花や山のはしらぬ夕月夜。侍ほとときす穿ちかきそら。一むらの雪のゆくえに雨みえて。舟きしかへる袖のうらかせ。うちよする磯邉の波や高からし。かきつめたくもしめるもくつ火。松の葉は雫もともに落そひて。ところところの岩かねの霜。
  • 12月4日、12月5日、12月6日は記述なし。
  • 12月7日 - 普請が出来上がった。
  • 12月8日 - 人数を返した。
  • 12月9日、12月10日は記述なし。
  • 12月11日 - 古府中へ出仕した。明日帰陣するようにとの仰せがあった。越前柴田勝家の所より御音信があった。進上物はしじら織30巻、はわた百把に鱈五本であった。
  • 12月12日 - 大宮まで来た。
  • 12月13日 - 晩に雨降り。宇津谷まで来た。
  • 12月14日 - 雨降り。原川まで来た。
  • 12月15日 - 時雨。吉田まで来た。寒に入った。
  • 12月16日 - 深溝まで来た。
  • 12月17日 - 記述なし。
  • 12月18日 - 松平康定方に振舞があった。会下へ参った。薄雪が降り積った。
  • 12月19日、12月20日は記述なし。
  • 12月21日 - 夜雨降り。会下へ参った。
  • 12月22日、12月23日は記述なし。
  • 12月24日 - 日待をした。
  • 12月25日から12月30日まで記述なし。

天正11年(1583年)1月[編集]

  • 1月1日 - 家中の礼を申し述べる衆が来られた。
  • 1月2日、1月3日は記述なし。
  • 1月4日 - 僧衆が礼に来られた。
  • 1月5日 - 記述なし。
  • 1月6日 - 浜松へ礼に日通りにて行った。
  • 1月7日 - 雨降り。出仕した。
  • 1月8日 - 雨降り。浜名まで帰った。
  • 1月9日 - 深溝へ帰った。
  • 1月10日 - 岡崎の久志本法安が来られた。
  • 1月11日 - 東条の松平康親の娘(唐梅院)が、浜松の井伊直政の所に嫁いだ。
  • 1月12日 - 記述なし。
  • 1月13日 - 佳例の連歌があった。発句。勘左。松におほふかすミや千世のふかミとり。
  • 1月14日 - 日待。供餅茶をした。
  • 1月15日 - 立春
  • 1月16日 - 浜松殿が岡崎へ来られた。
  • 1月17日 - 雨降り。大津時隆池野有助が来た。
  • 1月18日 - 尾張清州の織田信雄と家康が星崎にて会見した。松平忠勝(家忠の弟)の所に振舞があった。
  • 1月19日 - 三光院の住持てんはが高橋にて死去した。
  • 1月20日 - 浜松殿が吉良へ鷹狩に来られた。
  • 1月21日 - 会下へ参った。大洞山泉龍院より使僧が来た。東堂が病気なので年頭の礼を申し上げた。
  • 1月22日 - 北殿方に振舞があって行った。意玉の火取りにて供餅茶をした。
  • 1月23日 - 雨降り。
  • 1月24日、1月25日は記述なし。
  • 1月26日 - 夜、二尺から三尺程の大雪が降った。
  • 1月27日、1月28日は記述なし。
  • 1月29日 - 雪降り。
  • 1月30日 - 昨日同様雪降り。夜、盗人が蔵へ押し入った。

天正11年(1583年)閏1月[編集]

  • 閏1月1日 - 浜松へ家康が御帰りになるとのことだ。
  • 閏1月2日 - 記述なし。
  • 閏1月3日 - 雪降り。家康より鷹狩の雁を戴いた。午後8時頃に晦日の盗人が逃げて行方を晦ました。勤番の小者で甚蔵と宗七だった。
  • 閏1月4日 - 方々へ人を行かせて盗人の探索をした。会下の東堂が来られた。
  • 閏1月5日 - 雨降り。会下へ参った。礼をしながら。
  • 閏1月6日 - 東堂を振舞申し上げた。雪降り。東条の松平康親より鷹狩の雁が届いた。
  • 閏1月7日、閏1月8日は記述なし。
  • 閏1月9日 - 雨降り。会下へ振舞があって行った。大津時隆が他国へ助勢を遣わした。
  • 閏1月10日 - 雨降り。中島へ行った。
  • 閏1月11日 - 堤防の築造をした。岡田孫左衛門尉を振舞った。大塚より来て永良池で網引きがあった。魚を取った。
  • 閏1月12日 - 崇福寺に振舞があった。
  • 閏1月13日 - 大原一平の所へ振舞があって行った。松崎と伊東が来られた。
  • 閏1月14日 - 記述なし。
  • 閏1月15日 - 崇福寺文師方に振舞があった。
  • 閏1月16日 - 記述なし。
  • 閏1月17日 - 松崎と伊東が来られた。深溝へ帰った。
  • 閏1月18日 - 又、中島へ行った。
  • 閏1月19日 - 雪と雨降り。岡崎の満性寺一世が来られた。長沢の松平康忠のための大鷹を刺取らえた。
  • 閏1月20日 - 長沢へ鷹を遣った。
  • 閏1月21日 - 崇福寺文師方に振舞があった。満性寺一世が帰られた。
  • 閏1月22日 - 記述なし。
  • 閏1月23日 - 夜雨降り。深溝へ帰った。
  • 閏1月24日 - 記述なし。
  • 閏1月25日 - 夜、地震があった。隼が雁を取った。
  • 閏1月26日 - 雪降り。鵜殿長信が礼に来られた。夜、地震があった。
  • 閏1月27日 - 桜井の松平忠広が隼を借りに来られた。雪降り。
  • 閏1月28日 - 松平忠広が帰られた。
  • 閏1月29日 - 永良へ白縄引かせの漁に行った。鯉を15本取って深溝へ帰った。

天正11年(1583年)2月[編集]

  • 2月1日 - 雨降り。
  • 2月2日、2月3日は記述なし。
  • 2月4日 - 彼岸に入った。浜松で裁決を御願いする事があり吉田まで行った。酒井忠次へ振舞った。
  • 2月5日 - 浜松へ行った。
  • 2月6日 - 城へ出仕した。岡崎の御屋敷様が御越しのため殿様が迎えに出られた。自分も供として迎えに出た。田原家戸田忠次より当方の妹との祝言の事は殿様の御意向であるとして申入れが来た。
  • 2月7日 - 記述なし。
  • 2月8日 - 夜、雨降り。
  • 2月9日 - 夜、雨降り。吉田の酒井忠次が来られた。城へ同道して出仕した。
  • 2月10日 - 雨降り。
  • 2月11日、2月12日、2月13日は記述なし。
  • 2月14日 - 御裁決嘆願の事を酒井忠次が上申した。二位法印如雪方へ振舞があって行った。
  • 2月15日 - 深溝へ帰った。
  • 2月16日 - 記述なし。
  • 2月17日 - 雨降り。
  • 2月18日 - 大津への祝言は24日に決まった。
  • 2月19日 - 雨降り。清因が来た。
  • 2月20日 - 記述なし。
  • 2月21日 - 会下へ参った。
  • 2月22日 - 雨降り。
  • 2月23日 - 記述なし。
  • 2月24日 - 妹を大津の戸田忠次の所へ嫁がせた。
  • 2月25日 - 雨降り。
  • 2月26日 - 雨降り。
  • 2月27日 - 雨降り。
  • 2月28日 - 雨降り。
  • 2月29日 - 雨降り。

天正11年(1583年)3月[編集]

  • 3月1日 - 記述なし。
  • 3月2日 - 雨降り。
  • 3月3日 - 地震が3度あった。
  • 3月4日 - 夜、地震が2度。
  • 3月5日 - 山中の法蔵寺が来られた。
  • 3月6日 - 記述なし。
  • 3月7日 - 丹羽隼人が来た。
  • 3月8日 - 雨降り。
  • 3月9日 - 雨降り。
  • 3月10日 - 下ノ郷へ礼に行った。
  • 3月11日 - 記述なし。
  • 3月「」2日 - 雨降り。
  • 3月13日 - 雨降り。
  • 3月14日 - 雨降り。
  • 3月15日、3月16日は記述なし。
  • 3月17日 - 中島へ茶会に行った。吉田の酒井家次殿へ穴山梅雪殿の娘が嫁いで来た。
  • 3月18日 - 記述なし。
  • 3月19日 - 岡崎の松崎と伊東が来られた。
  • 3月20日 - 記述なし。
  • 3月21日 - 永良へ堤防の築造に行った。
  • 3月22日 - 記述なし。
  • 3月23日 - 雨降り。深溝へ帰った。
  • 3月24日 - 雨降り。
  • 3月25日 - 春雨が降った。吉田の酒井忠次方に祝言に行った。時鳥が鳴いたとの事だ。自分自身で聞いた訳ではない。
  • 3月26日、3月27日は記述なし。
  • 3月28日 - 夢想之連歌を興行した。あふミなる五十四郡の手につけて。
  • 3月29日 - 雨降り。
  • 3月30日 - 雨降り。お灸を内肩に据えた。

天正11年(1583年)4月[編集]

  • 4月1日 - 記述なし。
  • 4月2日 - 中島へ茶会に行った。時鳥の初音を聞いた。
  • 4月3日 - 雨降り。
  • 4月4日、4月5日は記述なし。
  • 4月6日 - 雨降り。
  • 4月7日から4月9日まで記述なし。
  • 4月10日 - 雨降り。深溝へ帰った。
  • 4月11日、4月12日は記述なし。
  • 4月13日 - 雨降り。連歌師の玄秀が来た。
  • 4月14日 - 西返しの風が吹いた。雨降り。
  • 4月15日 - 会下へ参った。舞々の勘大夫が来た。大織冠、いつミ合戦を舞った。
  • 4月16日 - 記述なし。
  • 4月17日 - 雨降り。
  • 4月18日 - 雨降り。
  • 4月「」9日 - 川狩に行った。
  • 4月20日 - 記述なし。
  • 4月21日 - 会下へ参った。
  • 4月22日 - 夜、雨が降る。
  • 4月23日 - 記述なし。
  • 4月24日 - 似僧による月次の連歌があった。発句。似僧。馨遠く山たちいてよ時鳥。
  • 4月25日 - 越前の柴田勝家播磨羽柴秀吉が、近江にて去る21日に合戦を行なって柴田勢が負けた。羽柴勢が柴田一党を討ち取ったそうだ。
  • 4月26日 - 浜松の松庵が御越しになった。形原の松平家信殿の祝言があり、長沢の松平康忠の娘が嫁に来られる。大塚まで出迎えに行った。
  • 4月27日 - 形原へ祝言に行った。
  • 4月28日 - 雨降り。
  • 4月29日 - 雨降り。会下にて日待をした。

天正11年(1583年)5月[編集]

  • 5月1日 - 記述なし。
  • 5月2日 - 雨降り。
  • 5月3日 - 雨降り。二郎作による月次の連歌があった。正佐。茂りあひて松と竹との富を生哉。
  • 5月4日 - 記述なし。
  • 5月5日 - 会下へ参った。
  • 5月6日 - 雨降り。
  • 5月7日 - 雨降り。
  • 5月8日 - 記述なし。
  • 5月9日 - 雨降り。
  • 5月10日 - 雨降り。鞠望が来た。
  • 5月11日 - 祈祷があった。雨降り。
  • 5月12日 - 雨降り。家康が甲州より、一昨日の九日に浜松へ御帰りになったそうだ。
  • 5月13日 - 午後6時頃より雨が降り出して、午後4時頃には大雨となった。
  • 5月14日 - 雨降り。所々で大水が出て田地が損害を被った。浜松へ人を遣わした。
  • 5月15日 - 会下へ参った。
  • 5月16日 - 夜、雨降り。
  • 5月17日 - 初山桃。
  • 5月18日 - 織田信孝殿が尾張の内海にて腹を御切りになった。
  • 5月19日 - 初茄子が届いた。
  • 5月20日 - 岡崎の松崎殿、伊東殿が来られた。
  • 5月21日 - 会下へ参った。石川数正が羽柴秀吉の所へ行かれた。家康より「初花」の小壺が羽柴秀吉へ贈られた。
  • 5月22日 - 初ささぎが届いた。初夕顔も届いた。
  • 5月23日、5月24日は記述なし。
  • 5月25日 - 松平喜平の所に振舞があった。初菰。
  • 5月26日 - 晩より夜へ懸けて夕立があった。
  • 5月27日 - 松崎と伊東が帰られた。
  • 5月28日、5月29日は記述なし。

天正11年(1583年)6月[編集]

  • 6月1日 - 会下へ参った。
  • 6月2日 - 雨降り。
  • 6月3日 - 雨降り。土用に入った。
  • 6月4日 - 雨降り。
  • 6月5日 - 雨降り。甲州善光寺の阿弥陀如来は去年三月に甲斐、信濃へ信長様が御討ち入りの時、上之介信忠殿が美濃へ御移しになったものだが、信長様御父子が御自害になったので、又、甲斐国へ御返りになるとの事で岡崎まで御越しになった。
  • 6月6日 - 雨降り。
  • 6月7日 - 雨降り。
  • 6月8日 - 雨降り。
  • 6月9日 - 記述なし。
  • 6月10日 - 夕立。善光寺の阿弥陀如来が吉田まで来られた。
  • 6月11日 - 夕立。
  • 6月12日 - 川狩に行った。
  • 6月13日 - 夜、雨降り。
  • 6月14日 - 記述なし。
  • 6月15日 - 夜、雨降り。
  • 6月16日から6月19日まで記述なし。
  • 6月20日 - 夕立があった。
  • 6月21日 - 会下へ参った。
  • 6月22日 - 竹谷の松平金左衛門尉殿と碁打ちの廣田が来た。竹谷松平家のお抱えの者だ。天下一の碁打ちに二目置いての対局者である。
  • 6月23日 - 知行地の年貢計算をした。
  • 6月24日 - 雨降り。
  • 6月25日 - 記述なし。
  • 6月26日 - 午前10時頃に地震があった。中島へ行った。
  • 6月27日 - 堤防の築造をした。
  • 6月28日 - 昨日同様堤防の築造をした。
  • 6月29日 - 記述なし。
  • 6月30日 - 深溝へ帰った。

天正11年(1583年)7月[編集]

  • 7月1日 - 会下へ参った。
  • 7月2日 - 会下に施餓鬼会があって参った。
  • 7月3日 - 東堂が大洞山泉龍院へ御赴任中なので、7月15日に行う施餓鬼の実施日を引き移して今日行った。
  • 7月4日 - 小美へ川狩に行った。保母の松平忠政方に振舞があった。岡崎衆が来られた。
  • 7月5日 - 鮎を立川で捕えた。鱸を二十本取った。深溝へ帰った。
  • 7月6日 - 雨乞いのために、宮へ篠踊りを奉納して踊らせた。夜雨が降った。
  • 7月7日 - 昨日の雨の御礼のため、宮へ踊り奉納があって行った。捨石踊りも来た。
  • 7月8日 - 市場踊りがあった。
  • 7月9日 - あふれるばかりに激しい豪雨が降った。
  • 7月10日 - 雨降り。
  • 7月11日 - 山脇踊りが来た。酒井忠次より、来月6日に川中島へ御出陣があると連絡が来た。今月20日に家康の御娘が相模国の北条氏直へ御祝言なされるので、19日に浜松へ行くようにとの連絡が来た。
  • 7月12日 - 大坊踊りが来た。
  • 「」 - 三光院踊りが来た。
  • 「」 - 会下へ参った。雨がはらはらと降った。
  • 7月15日 - 会下へ参った。
  • 7月16日 - 記述なし。
  • 7月17日 - むらだちがあった。夜雨降り。
  • 7月18日 - 同じく、むらだちがあった。浜松へ行く人夫役を出発させた。
  • 7月19日 - 雨降り。浜松へ日駆けにて行った。城へ出仕した。御祝言の進上物として、板物を二反。
  • 7月20日 - 大雨降り。五十年以来の大水であり、御祝言も延期となった。
  • 7月21日 - 白須賀まで帰った。雨降り。川中島への御出陣は来月12日まで延びた。
  • 7月22日 - 雨降り。深溝へ帰った。中島と永良の堤防の水門が悉く決壊した。三河中で堤防が所々決壊した。
  • 7月23日 - 雨降り。午後4時から6時の間に地震があった。夜大雨が降り大水が出た。20日の大水より水嵩が高かった。
  • 7月24日 - 雨降り。中島永良の堤防が又3、4ヶ所決壊した。田地全部残らず損害を被った。家も拉げた。
  • 7月25日 - 小雨が降った。正午頃まで。
  • 7月26日 - 記述なし。
  • 7月27日 - 東堂が大洞山泉龍院を次番に渡して来られた。大水での堤防崩壊で永良中島の所務に手が付けられない状態なので、浜松へ嘆願に小兵衛を遣わした。
  • 7月28日 - 会下へ参った。中島へ洪水の状況を見に行った。野場よりは船で行った。
  • 7月29日 - 雨降り。会下へ参った。東堂が大澤山龍渓院へ三年持で御越しになった。浜松の浄清が来られた。浜松へ大水による被害対策嘆願のために人を行かせた。

天正11年(1583年)8月[編集]

  • 「」 - 会下へ参った。雨降り。夜、大雨大風が吹いた。
  • 「」 - 雨降り。
  • 8月3日 - 浜松へ行った使いが帰って来た。たとえ御普請があったとしても、課役は免除して戴けるとの連絡が来た。
  • 8月4日 - うにや。拾石へ川狩りに行った。鮎が入った。
  • 8月5日 - 川狩に行った。羽柴秀吉より家康の所へ津田盛月が使者として来られた。進上物として不動国行の刀を贈って来た。
  • 8月6日 - 川狩に行った。雨降り。
  • 8月7日 - 雨降り。
  • 8月8日 - 雨降り。川狩に行った。
  • 8月9日 - 川狩に行った。
  • 8月10日 - 彼岸に入った。会下へ参った。
  • 8月11日 - 川狩に行った。
  • 8月12日 - 川狩に行った。
  • 8月13日 - 雨降り。
  • 8月14日 - 記述なし。
  • 8月15日 - 会下へ参った。
  • 8月16日 - 川狩に行った。
  • 8月17日から8月19日まで記述なし。
  • 「」 - 野田の久斎より松茸が届いた。
  • 「」 - 「」下へ「」った。井伊直政殿が東条へ来られて帰られた。検地の結果、従来の高よりも増分が出た。
  • 「」 - 家康が24日に甲州方面へ御出馬との事で13日に浜松へ行く。
  • 8月23日 - 雨降り。
  • 8月24日 - 雨降り。
  • 8月25日 - 雨降り。家康が昨日24日に甲州に御越しになった。
  • 8月26日から8月29日まで記述なし。
  • 8月30日 - 夜、雨降り。

天正11年(1583年)9月[編集]

  • 9月1日 - 会下へ参った。
  • 9月2日 - 記述なし。
  • 9月3日 - 緒川より連歌師の長尊が遣って来た。
  • 9月4日 - 一折連歌興業があった。雨降り。発句。長尊。山松は霧のうへなる朝戸哉。
  • 9月5日 - 記述なし。
  • 9月6日 - 郡中の知行領有について織田信雄殿より仰せ越されたけれども、違いがあったそうだ。緒川にも違いがあった。
  • 9月7日 - 酒井忠次より江尻番を触れに来た。来る24日。
  • 9月8日 - 記述なし。
  • 9月9日 - 「」
  • 9月10日 - 松平康定の所で興行があった。長尊。折跡やなを初花の宿の菊。
  • 9月11日 - 祈祷があった。
  • 9月12日 - 雨降り。土蔵を作った。
  • 9月13日 - 竹谷の松平清善の所に興行があった。日待をした。長尊を御呼びした。長尊。今夜又ひかりそふかな秌の月。
  • 9月14日 - 記述なし。
  • 9月15日 - 会下へ参った。
  • 9月16日 - 記述なし。
  • 9月17日 - 鳥屋にて鷂が留まった。
  • 9月18日 - 雨降り。
  • 9月19日 - 吉田の酒井家次へ鷂を届けた。
  • 9月20日 - 吉田より鷹の礼のために使いが来た。雨降り。
  • 9月21日 - 法楽の連歌があった。勘左。ゆふ花や匂ふかうへの菊の露。
  • 9月22日 - 雨降り。長尊が鳳来寺参詣をすると言って出発された。
  • 9月23日 - 記述なし。
  • 9月24日 - 江尻番のために白須賀まで行った。
  • 9月25日 - 見付まで行った。
  • 9月26日 - 島田まで行った。
  • 9月27日 - 江尻宿の中まで行った。
  • 9月28日 - 西郷家員殿と番を交替した。御奉行衆の板倉勝重の所にて振舞があった。
  • 9月29日、9月30日は記述なし。

天正11年(1583年)10月[編集]

  • 10月1日 - 定番衆に振舞をした。
  • 10月2日 - 殿様が甲府より江尻へと軍勢を戻された。
  • 10月3日 - 戸田忠次殿を振舞った。山孫八より、明日長久保城の普請に行くようにとの御意向であると連絡して来た。松平紀伊守家忠を振舞った。
  • 10月4日 - 長久保城普請のために興国寺城まで行った。
  • 10月5日 - 長久保城まで行った。雨降り。
  • 10月6日 - 牧野康成の所に振舞があった。雨降り。
  • 10月7日 - 記述なし。
  • 10月8日 - 普請をした。
  • 10月9日 - 伊勢物語
  • 10月10日、10月11日は記述なし。
  • 10月12日 - 雨降り。
  • 10月13日 - 記述なし。
  • 10月14日 - 雨降り。
  • 10月15日 - 普請が出来上がったので、興国寺城まで帰った。
  • 10月16日 - 江尻まで帰った。形原松平紀伊守家忠が死去したそうだ。
  • 10月17日 - 「」番を松平康長に渡して、島田まで帰った。
  • 10月18日 - 「」光院が去る13日に死去したそうだ。浜松まで帰陣した。16日に娘が産まれたとの連絡が来た。
  • 10月19日 - 松波かち平の所に振舞があった。浜松の江湖僧そけいの所へ見舞に行った。吉田まで帰った。
  • 10月20日 - 深溝まで帰った。
  • 10月21日 - 会下へ参った。
  • 10月22日 - 記述なし。
  • 10月23日 - 雨降り。
  • 10月24日 - 記述なし。
  • 10月25日 - 永良へ行った。長池にて白縄引き漁で鯉を10本取った。
  • 10月26日 - 深溝へ帰った。
  • 10月27日 - 雨降り。幡豆より大網を借りる約束があって又永良へ行った。網の手合が違って深溝へ帰った。
  • 10月28日、10月29日は記述なし。

天正11年(1583年)11月[編集]

  • 11月1日 - 永良へ幡豆より網引きが来たので、永良へ行って網を引かせた。
  • 11月2日 - 雨降り。網引き漁をした。鯉を60本、鮒を500枚取った。岡崎の松崎殿が来られた。
  • 11月3日 - 深溝へ帰った。
  • 11月4日 - 会下へ参った。吉田へ人を音信のために遣わした。愛宕の山伏が来られた。
  • 11月5日、11月6日は記述なし。
  • 11月7日 - 雨降り。刈谷へ使者が行った。
  • 11月8日 - 会下へ参った。
  • 11月9日 - 下ノ郷市場の妹が来た。
  • 11月10日 - 松崎殿が帰られた。
  • 11月11日 - 雨降り。
  • 11月12日 - 鵜殿長信が来られた。松平伊長の所にて振舞があった。
  • 11月13日 - 殿様が明後日の15日に駿州へ御越しになると連絡が来た。
  • 11月14日 - 松平喜平の所で鵜殿長信への振舞いがあって帰られた。
  • 11月15日 - 会下の香春方に振舞があって行った。
  • 11月16日 - 記述なし。
  • 11月17日 - 下ノ郷の妹が帰った。
  • 11月18日 - 雨降り。大雨風が吹いた。家が損壊した。大風である。
  • 11月19日 - 記述なし。
  • 11月20日 - 織田信雄殿が上方にて御切腹なされたという風評が流れて来た。
  • 11月21日 - 雨降り。
  • 11月22日 - 会下へ参った。織田信雄殿の御事は噂であった。
  • 11月23日 - 初雪が降る。
  • 11月24日 - 東堂が大澤山龍渓院より来られた。「長尊が山中から帰ってきた」が墨で塗り潰されている。
  • 11月25日 - 長尊が山中より帰られた。会下へ参った。
  • 11月26日 - 寒に入った。
  • 11月27日 - 雨降り。東堂様を振舞申し上げた。
  • 11月28日 - 記述なし。
  • 11月29日 - 大津の戸田忠次より隼、鴨、鷹が届いた。
  • 11月30日 - 雨降り。

天正11年(1583年)12月[編集]

  • 12月1日 - 会下へ参った。
  • 12月2日から12月5日まで記述なし。
  • 12月6日 - 雪と雨降り。
  • 12月7日 - 記述なし。
  • 12月8日 - 殿様が去る4日に駿州より御帰りになったそうだ。東条妹(ちいは)の祝言の事を連絡して来た。
  • 12月9日 - 持寄の連歌が三光院にてあった。竹谷の松平金左衛門、碁うちの廣田が来た。発句。長尊。氷つつ緑あらハす水草哉。
  • 12月10日 - 夜、雨降り。
  • 12月11日 - 雨降り。
  • 12月12日、12月13日は記述無し。
  • 12月14日 - 岡崎へ日帰りで板物を買いに行った。
  • 12月15日 - 三光院の永文方に振舞にて行った。会下へ参った。
  • 12月16日、12月17日は記述無し。
  • 12月18日 - 会下へ参った。
  • 12月19日、12月20日は記述無し。
  • 12月21日 - 会下へ参った。
  • 12月21日から12月26日まで記述無し。
  • 12月27日 - 妹が浜松へ行った。甲斐衆の跡部昌勝の所へ殿様の御意向にて行った。人足の助勢は形原より16人、下ノ郷より20人と馬5疋、竹谷より7人と馬5疋である。自分の屋敷家に祝言が有った。
  • 12月28日 - 記述無し。
  • 12月29日 - 浜松での越年のために人夫を出した。
  • 12月30日 - 浜松へ越年に、本坂を日通りにて行った。小笠広忠殿の所へ行った。

天正12年(1584年)1月[編集]

  • 1月1日 - 雨降り。遠州衆が出仕であった。跡部昌勝の所へ行った。刀を贈った。跡部の所よりは具足をくれた。又七おやという長老に脇差を贈った。
  • 1月2日 - 城へ出仕した。城での謡初に出席した。
  • 1月3日 - 雨降り。日着けに深溝まで帰った。馬が病気になった。
  • 1月4日 - 雨降り。家中衆が新年の礼に来られた。
  • 1月5日 - 記述無し。
  • 1月6日 - 馬が良くならないので、佐橋という馬医者が来た。
  • 1月7日 - 雨降り。吉田の酒井忠次へ礼に行った。
  • 1月8日 - 記述無し。
  • 1月9日 - 馬の病気は佐橋が来て少し良くなった。
  • 1月10日 - 記述無し。
  • 1月11日 - 祈祷に南城坊が来た。
  • 1月12日 - 記述無し。
  • 1月13日 - 佳例の連歌があった。発句。千枝より月もる春の松葉哉。雨降り。
  • 1月14日 - 日待をした。供繊茶、宗源が火を御取りになった。
  • 1月15日 - 会下へ参った。
  • 1月16日 - 記述無し。
  • 1月17日 - 雨、雪降り。供煎茶。太郎右衛門と小兵衛が火を取った。
  • 1月18日 - 会下へ参った。
  • 1月19日、1月20日は記述無し。
  • 1月21日 - 岡崎へ礼に行った。
  • 1月22日 - 会下の東堂が大澤山龍渓院より昨日来られたので参った。
  • 1月23日 - 東堂を振舞った。鵜殿長信殿が礼に来られた。
  • 1月24日 - 竹谷の松平清善殿が礼に来られた。お猿(松平忠利)に脇差を下された。
  • 1月25日 - 松平小右衛門の所に月次の連歌があった。家忠。庭や持そのふの外もにほひ哉。
  • 1月26日 - 下ノ郷へ礼に行った。
  • 1月27日 - 会下に振舞があって行った。
  • 1月28日 - 夜、大雨降り。
  • 1月29日 - 本教坊の所に振舞があった。

天正12年(1584年)2月[編集]

  • 2月1日 - 松平伊長の所に振舞があった、会下へ参った。
  • 2月2日 - 長尊に伊勢物語を聞いた。
  • 2月3日 - 雨降り。竹谷へ礼に行った。松平清善殿方に振舞があった。浜松へ御嘆願に小兵衛を行かせた。
  • 2月4日 - 西風が荒く吹いた。伊勢物語を長尊に聞いた。
  • 2月5日 - 松平親定の所に振舞があって行った。舞々勘大夫が来た。
  • 2月6日、2月7日は記述無し。
  • 2月8日 - 伊勢物語を聞き終わった。
  • 2月9日 - 雨降り。松平玄成が浜松より来た。
  • 2月10日 - 記述無し。
  • 2月11日 - 保母の松平忠政の子が元服して名を変えた。馬鎧を送った。
  • 2月12日 - 桜井舞々が来た。大織冠、夜討曾我。
  • 2月13日、2月14日は記述無し。
  • 2月15日 - 彼岸に入った。浜松より知行地内の人足役が済んで中島へ堤防の築造に行った。
  • 2月16日 - 堤防の築造をした。
  • 2月17日 - 昨日同様堤防の築造をした。雨降り。
  • 2月18日 - 同じく堤防の築造をした。
  • 2月19日 - 雨降り。永良の大原一平の所へ振舞があって行った。岡田孫左衛門尉を振舞った。
  • 2月20日 - 深溝へ帰った。
  • 2月21日 - 会下へ参った。中島へ行った。徳正方に振舞があり長尊が同道した。
  • 2月22日 - 記述無し。
  • 2月23日 - 大雨降り。洪水になった。
  • 2月24日 - 記述無し。
  • 2月25日 - 崇福寺に振舞があって、深溝へ帰った。
  • 2月26日 - 記述無し。
  • 2月27日 - 内肩に灸を据えた。
  • 2月28日 - 中島へ行った。正佐が上方より下られた。家康より茶釜の御所望があって浜松へ届けた。
  • 2月29日 - 永良の堤防の築造をした。雨降り。
  • 2月30日 - 深溝へ帰った。

天正12年(1584年)3月[編集]

  • 3月1日 - 会下へ参った。
  • 3月2日 - 雨降り。酒井忠次より、当て御貸し下さったは、そのままに御差し置き下さるとの事なので、家康へ早々に御礼に行くようにとの連絡があった。
  • 3月3日 - 浜松へ日駆けにて行った。舞坂より雨降り。城にて御能が有り、観世流の息子初太夫が来た。
  • 3月4日 - 城へ出仕した。昨日3日に三河と遠州に徳政令が施行された。永代買物だけを除外して、その外は悉く徳政令の対象となった。
  • 3月5日 - 深溝へ帰った。
  • 3月6日 - 記述無し。
  • 3月7日 - 雨降り。酒井忠次より織田信雄が長島城にて岡田重孝津川義冬を殺害なされたので、尾州への御出陣が明日か明後日になると連絡が来た。午後8時頃吉田より、家康は早々と岡崎へ御通りになったので御出陣は明日であると連絡が来た。
  • 3月8日 - 雨降り。岡崎まで出陣したならば道筋まで行くようにとの御意向なので、矢作まで行った。
  • 3月9日 - 阿野まで着陣した。
  • 3月10日 - 酒井忠次と一緒に鳴海まで着陣した。
  • 3月11日 - 雨降り。
  • 3月12日 - 山崎まで着陣した。伊賀大和が御味方に加わるそうだ。
  • 3月13日 - 津島まで着陣した。
  • 3月14日 - 桑名へ出陣した所、犬山城池田元助が攻め取ったので市江川より帰った。酒井忠次は通られた。津の織田信包殿が敵になられて、北伊勢亀山では堀秀政長谷川秀一、滝川一益、日野の掃部が攻撃を加えて、尾州衆を追い払い峯の城まで退けたそうだ。300人余りが討ち取られた。
  • 3月15日 - 酒井忠次が桑名より津島へ帰られた。
  • 3月16日 - 清州の近所である落合の郷まで着陣した。
  • 3月17日 - 犬山方面へ攻撃を行なった。森長可が守っている屋敷を押し破り敵が敗北した。300人余りを討ち取った。家中でも15人を討ち取った。
  • 3月18日 - 本営の清州へ出仕した。
  • 3月19日 - 雨降り。羽柴「」が出陣して来たそうだ。
  • 3月20日 - 雨降り。
  • 3月21日 - 記述無し。
  • 3月22日 - 雨降り。
  • 3月23日 - 跡部昌勝殿が陣の見廻りに来られた。
  • 3月24日 - 比良の城の普請に行った。
  • 3月25日 - 記述無し。
  • 3月26日 - 羽柴秀吉が美濃へ進出したとの事だ。
  • 3月27日 - 雨降り。明日小牧へ陣替するようにと連絡が来た。小笠原権兵衛尉が酒井忠次の家中を離脱して、自分が当分の間抱える事になった。
  • 3月28日 - 小牧へ陣替した。羽柴秀吉が小牧原へ軍を押し進めた。
  • 3月29日 - 織田信雄が川内長島城より小牧へ移られた。

天正12年(1584年)4月[編集]

  • 4月1日 - 敵が陣幕を回りに張り巡らせて陣取った。
  • 4月2日 - 記述無し。
  • 4月3日 - 外山へ番のために移った。作手、形原、下ノ郷。
  • 4月4日 - 番を野田と西郷に替わった。
  • 4月5日 - 又外山へ番に行った。
  • 4月6日 - 記述無し。
  • 4月7日 - 出撃して戦った。
  • 4月8日 - 「岩崎筋へ」。家康のもとへ出仕した。
  • 4月9日 - 岩崎方面へ出撃して戦闘を行ない、敵の先陣池田勝入恒興と元助父子、森長可、その外1万5000人余りを討ち取った。酒井忠次は小牧城の防備を担っていた。
  • 4月10日から4月15日まで記述無し。
  • 4月16日 - 鵜殿長信の所に振舞があった。
  • 4月17日 - 酒井家次を振舞った。外山へ番に行った。
  • 4月18日から4月22日まで記述無し。
  • 4月23日 - 記述無し。
  • 4月24日から4月25日まで記述無し。
  • 4月26日 - 敵陣へ尾張衆が夜討ちを掛けて敵を討ち取った。
  • 4月27日 - 記述無し。
  • 4月28日 - 雨降り。
  • 4月29日 - 雨降り。外山へ番に行った。
  • 4月30日 - 記述無し。

天正12年(1584年)4月[編集]

  • 5月1日 - 羽柴秀吉が退散した。
  • 5月2日 - 記述無し。