跡部勝資
跡部 勝資(あとべ かつすけ、? - 天正10年3月11日[1](1582年4月3日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。武田勝頼の最側近であり、勝頼政権で大いに権勢を振るった。『甲陽軍鑑』では長坂虎房と並ぶ勝頼の奸臣として描かれ、甲斐武田氏を滅亡に追いやった人物と評されている。
生涯[編集]
父は跡部信秋で嫡子[1][2]。仮名は又八郎[1]。官途は大炊助[1]。受領名は尾張守[1]。子に和田信業(長男)、昌出(次男)、娘(朝比奈信良室)、昌勝(三男)らがいる[1]。弟に跡部昌秀[3]。
武田信玄の時代から仕える重臣であり[1]、父の信秋が元亀元年(1570年)で活動が確認できないことからこの頃までに家督を相続していたものと思われる。
信玄の時代から武田家一門・譜代重臣・諸国の先方衆に対する取次を多く務めていた関係から竜朱印状の奉書も永禄9年(1566年)閏8月を初見として多数見られ、他を圧倒している[2]。武田家の立場は譜代家老衆・同心衆300騎持で武田家の中でも最有力の宿老であった[2]。官途に関しては永禄10年(1567年)5月4から大炊助を称し、天正7年(1579年)12月26日から尾張守を称している[2]。
信玄没後、勝頼の時代になると筆頭家老になる[1]。長男の信業は上野の和田家に養子入りし、娘は駿河の朝比奈信良に嫁ぐなど甲斐武田家の中で自らの縁戚関係を拡大して権勢を拡大している[1]。勝頼の下では龍朱印状の奉書の大半を彼が発行しており、外交面でも常に彼が関与していることから勝頼政権での跡部の役割は事実上の最高責任者に等しいものと推測できる[1]。
天正10年(1582年)3月、織田信長の武田征伐では最後まで勝頼に従い、田野において戦死した[1][2]。
人物像[編集]
跡部勝資は長坂虎房と共に武田勝頼の奸臣で主家を滅亡に追いやった、と『甲陽軍鑑』で評されている。長篠の戦いでは山県昌景や馬場信春ら名将連の宿老が慎重論を唱えて撤退を進言した際、長坂と共に跡部は主戦論を主張したとされている。ただし長坂は長篠には出陣していないし、跡部は出陣しているがはたして山県らの意見を退けるほどの権威があったのか疑問もある。他にも同書では御館の乱で長坂と共に軍資金を横領したなどとされている。最後の武田征伐でも勝頼を見捨てて逃亡したとする記録もある。