新府城
新府城(しんぷじょう)は、現在の山梨県韮崎市中田町にかつてあった日本の城である。1973年(昭和48年)には「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。
概要[編集]
この城は標高およそ500メートルの八ヶ岳の泥流でできた七里岩の台地上にあり、西は釜無川の絶壁に臨む要害かつ堅固な平山城であったという。
武田信玄の時代、織田信長や徳川家康を圧迫して甲斐・信濃・上野・駿河・飛騨・遠江などに勢力を拡大した甲斐武田氏であったが、元亀4年(1573年)4月12日に信玄が死去すると信長や家康の反撃が始まり、天正3年(1575年)5月21日には長篠の戦いにおいて信長・家康の前に信玄の跡を継いだ武田勝頼が致命的な大敗を喫して山県昌景や馬場信春ら多くの有力な重臣を失って急速に衰退する。これを機に信長や家康の反撃はさらに強まり、美濃岩村城や遠江高天神城などが信長・家康らによって次々と落とされて甲斐武田氏は追い詰められてゆく。
勝頼は信長や家康による武田領侵攻の際、従来の居館であった躑躅ヶ崎館では対応できないと考え、天正9年(1581年)12月に突貫工事を行なって新府城を築城し、ここを本拠にして移った。この際の奉行は真田昌幸が務めたと伝わっており、単に地形が険阻なだけでなく、出構えを築いたり、武田領全域に対応できる韮崎に商業的な拠点を築いたりとかなり進歩的な城を構築していたようである。しかし天正10年(1582年)2月から織田信長・徳川家康による武田征伐が始まると、小山田信茂・穴山信君・木曽義昌と次々と武田の将士は織田・徳川連合軍に寝返り、武田軍の兵力は甲州崩れと称される自然消滅をして新府城すら守れない状況になり、勝頼は築城したばかりの新府城を焼いて逃亡しようとしたがかなわず、天目山において嫡子の武田信勝、継室の桂林院殿(北条夫人)らと共に自決して戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した。
山頂の本丸跡は現在では赤松が生い茂る平地であり、その周囲にわずかな土塁が残っている。城跡は現在では韮山市立公園となっており、4月には信玄公祭りが開催される。