三河物語
三河物語(みかわものがたり)とは、戦国時代の松平氏・徳川氏に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は徳川家康に仕えた家臣の大久保忠教。忠教は家康の重臣・大久保忠世・大久保忠佐の実弟で、大久保忠隣の叔父である。
成立については本書の草稿が元和8年(1622年)。しかし、草稿成立後も忠教は添削を続け、4年後の寛永3年(1626年)に一応完成した。これが現在に伝わる作者の自筆本である。ただ、忠教自身にはこれすら完全なものと考えていなかったようで、自筆本には随所に補訂したような跡が見られ、下巻は特に加筆を加えたりしている。忠教が自著についてほとんど語っていないのでそのあたりがわからないが、恐らく最終的な完成した著に至らないまま、終わった可能性がある。
忠教が自著を『三河物語』と命名している。別称は『三河記』(みかわき)、『大久保忠教自記』(おおくぼただのりじき)、『大久保彦左衛門筆記』(おおくぼひこざえもんひっき)。
内容[編集]
上中下の全3巻。松平家の始祖である松平親氏が三河国松平郷に入り、歴代当主が三河国で勢力を拡大。9代目の松平元康(徳川家康)の時代になって天下を取るところまでが描かれている。書式は軍記物語のように描かれている。また、家康の家臣が書いたものなので、家康にバイアスがかけられている。
- 上巻 - 家康の20代前の子孫からの説明から始まる。松平氏は清和源氏で、新田義貞の一族の徳河とされている。しかし足利尊氏に追われて諸国を流浪し、10代を経て[注 1]親氏が松平郷に入ったとされている。以後、家康の高祖父・松平長親は北条早雲と戦い、曾祖父・松平信忠は暗愚、祖父・松平清康は優秀だが森山崩れで不慮の死、父・松平広忠は苦心の末に今川義元に従属した経緯が描かれている。そして、幼い頃の家康こと竹千代が織田信秀の人質となり、天文17年(1548年)の第2次小豆坂の戦い、そして広忠の死までが描かれている[注 2]。
- 中巻 - 今川義元の重臣・雪斎により織田信広が捕縛され、人質交換により竹千代と信広が交換されるところから始まる。以後、竹千代の元服、桶狭間の戦い、三河一向一揆、今川氏真との戦い、姉川の戦い、浜松城への居城移転までが描かれている。
- 下巻 - 武田信玄の西上作戦と三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、信康事件[注 3]、武田征伐、本能寺の変、神君伊賀越え、小牧・長久手の戦い、豊臣秀吉への臣従、関ヶ原の戦い、大坂の陣、家康の死去までが描かれている。
なお、下巻の大坂夏の陣の際、御旗崩れの吟味の一件が描かれている。大坂夏の陣の際、家康の旗奉行の保坂、庄田が大坂方の奮戦のため、旗を捨てて逃亡したので問題になった。大久保は保坂らと不仲であったが、この際に家康の旗は確かに立っていると執拗に言い放ち、家康は忠教が嘘をついていると見て激怒した。しかし、大久保は自分の意見を最後まで変えなかった。大久保は、家康の旗が倒れて逃げたとあっては徳川の家名に傷がつくと考え、徳川譜代の家臣として主家の武名を守るために主君の激怒を買うことも辞さない、という意見を記録している。これは忠教の武士、家臣としての考え方を述べているものとして注目される。