信長公記
信長公記(のぶながこうき/しんちょうこうき)とは、織田信長の生涯を描いた史料である。信長の1代記として非常に著名である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
元々の名は『信長記』(のぶながき)だが、小瀬甫庵の『信長記(甫庵信長記)』と区別するため、『信長公記』と呼ばれることになる。ただ、いつからそう呼ばれるようになったのかは明確ではない。別称は『原本信長記』(げんぽんのぶながき)、『安土記』(あづちき)、『安土日記』(あづちにっき)、『太田和泉守日記』(おおたいずみのかみにっき)、『織田記』(おだき)など。
著者は織田信長の家臣で弓衆を務めた太田牛一(和泉守)。成立は少なくとも太田が死去する慶長年間後期までのいずれかとなる。なお、太田は信長の家臣だった時期以外に、織田四天王の丹羽長秀の家臣で右筆を務めていた時期もあったとする説がある。成立については第13巻の奥書に「自分がつけていた日記を基にして、後年に著述した」と読めるような箇所がある。このため、晩年にそれを基に書いた可能性がある。
なお、この『公記』を基礎にして、小瀬甫庵の『甫庵信長記』をはじめ、『新撰信長記』や『増補信長記』、『総見記』、『武功夜話』などが作られている。
内容[編集]
全15巻、あるいは全16巻。これについても実は諸説がある。16巻の場合は首巻を加えた1巻から15巻までのもので、15巻の場合は首巻を除いたものである。ただ、首巻と第1巻以下の記述の方法が全く違うので、この2つは別人が書いたのではないか、つまり太田以外の誰かが書いたのではないかと推定されている。これについては以下の説がある。
- 首巻以外の15巻は元々、首巻のような記述であったが、後に1巻1年の記事を当てる日記形式に改めた。つまり、首巻の成立と15巻の成立は時期的に変わらない(小島広次の説)。
- 首巻は太田が作成した別の信長伝記であり、後世の人によって15巻に併せられたものとし、内容の年代から第1巻の前に置くための苦肉の策として「首巻」と名付けたとする説(石田善人の説)。
内容は勿論のこと、戦国の覇王である織田信長の伝記である。ただし、信長に仕えた経歴がある人物が記したものであるため、信頼性は高いと見られている。事実、現在まで織田信長の研究についてはこの『公記』が基礎史料となっている。
- 首巻 - 「是は信長卿御入洛なき以前の双紙なり」と書入れがある通り、信長の少年期、青年期について書かれている。父・織田信秀の死は天文18年(1549年)3月に享年42歳となっている。斎藤道三との対面、信長のうつけぶり、織田一族の内紛、桶狭間の戦い、美濃国攻めまでが描かれている。年代については天文11年(1542年)から永禄10年(1567年)までで、信秀が尾張国を支配していた状況なども描かれている。
- 第1巻 - この巻から首巻と書式が異なっている。各巻を1年に振り当てている。巻頭には「永禄11年戊辰以来織田弾正忠信長公の御在世、且これを記す」とある。美濃を制圧した信長が足利義昭を迎えて、それを奉じて上洛し、義昭を将軍に就任させて畿内を制圧し、岐阜に帰還するまでが描かれている。
- 第2巻 - 永禄12年(1569年)の記事。本圀寺の変、将軍御所の造営、信長の伊勢国の北畠具教攻めとそれを降伏させて次男・北畠信雄を養子に入れるまで。
- 第3巻 - 元亀元年(1570年)の記事。信長の朝倉義景攻撃。金ヶ崎の戦い、浅井長政の裏切りにより木下秀吉を殿にして撤退。姉川の戦い、杉谷善住坊の狙撃、志賀の陣と和睦までが描かれている。
- 第4巻 - 元亀2年(1571年)の記事。比叡山延暦寺の焼き討ちについて。焼き討ちが残酷なもののように描かれている。
- 第5巻 - 元亀3年(1572年)の記事。浅井長政・朝倉義景との戦い。そして甲斐国の武田信玄の侵攻とそれに伴う三方ヶ原の戦いまで。
- 第6巻 - 元亀4年・天正元年(1573年)の記事。信長と義昭の対立が決定的になり、槇島城の戦いが起きて室町幕府は滅亡。さらに朝倉義景、浅井長政が次々と信長に滅ぼされる。勢いを得た信長は伊勢長島一向一揆も攻めるが、敗北して撤退するまで。
- 第7巻 - 天正2年(1574年)の記事。浅井久政・長政父子や朝倉義景の首の薄濃が新年の宴に出されたこと、信長が蘭奢待を切り取ったこと、そして長年の強敵である伊勢長島一向一揆を遂に滅ぼすまで。
- 第8巻 - 天正3年(1575年)の記事。石山本願寺や三好康長との戦い、そして武田勝頼との長篠の戦い、越前一向一揆の殲滅とその後の越前掟9か条の制定、そして嫡男・織田信忠に家督を譲るまで。
- 第9巻 - 天正4年(1576年)の記事。安土城の築城開始。石山戦争の再燃。毛利輝元との戦いの開始など。ただ、この巻は安土城の全貌について書かれていることのほうが多い。特に後半は安土城についてである。
- 第10巻 - 天正5年(1577年)の記事。紀州雑賀党攻め、離反した松永久秀の信貴山城攻め、羽柴秀吉の中国攻略開始まで。
- 第11巻 - 天正6年(1578年)の記事。羽柴秀吉の播磨国平定、九鬼嘉隆に大船を建造させる、荒木村重の離反まで。
- 第12巻 - 天正7年(1579年)の記事。信長の出陣による荒木村重攻め、羽柴秀吉の三木城攻め、安土宗論、荒木村重攻めにより捕らえた荒木一族の処刑まで。なお、処刑された女性たちの辞世がその様子と共に詳細に描かれている。
- 第13巻 - 天正8年(1580年)の記事。三木城が兵糧攻めされて遂に落城し別所長治らが自害、石山戦争が終結、佐久間信盛が信長に折檻されて追放されるまで。
- 第14巻 - 天正9年(1581年)の記事。京都御馬揃え、徳川家康により武田方の高天神城落城、羽柴秀吉による鳥取城攻略、北畠信雄による伊賀国攻略まで。
- 第15(最終)巻 - 天正10年(1582年)の記事。安土城の新年の行事、武田征伐、羽柴秀吉の備中国高松城攻め、それにより毛利輝元ら毛利軍が出陣したので、信長も明智光秀ら織田軍主力を中国地方に向けることを決意。そして本能寺の変が起こり、信長と信忠が自害するまで。