天目山の戦い
天目山の戦い(てんもくざんのたたかい)とは、天正10年3月11日(1582年4月3日))に甲斐国北東部の天目山で行なわれた織田信長軍と武田勝頼軍による戦いのことである。この戦いで勝頼とその嫡男の武田信勝が自害したことにより、戦国大名としての甲斐武田家は滅亡した。
概要[編集]
戦いまでの経緯[編集]
詳細は「武田征伐」を参照
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は西上作戦を開始し、織田信長の美濃国、徳川家康の遠江国、三河国に対して侵攻を開始した。これにより武田家と織田家との間に結ばれていた同盟関係は破綻し、武田家と織田家は完全な敵対関係となった。
西上作戦は当初、岩村城の戦い、二俣城の戦い、三方ヶ原の戦いなどで勝利を重ねた武田方が優勢だった。しかし、この作戦の途中で信玄の持病が悪化し、元亀4年(1573年)4月12日に信濃国駒場において陣没し、武田軍は甲斐に撤退した。
これにより信玄に追い詰められていた信長、家康らは再起を果たし、信玄と連携していた足利義昭、浅井長政、朝倉義景らを次々と滅ぼしてゆく。『甲陽軍鑑』によると、武田家では信玄の死後、武田家の家督は信玄の4男である勝頼が信勝が16歳に成長するまでの陣代として継承。勝頼は信玄と同じように信長、家康に対して一時は優勢に立つが、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで大敗を喫し、一気にその勢力を衰退させることになる。
さらに3年後の天正6年(1578年)3月、上杉謙信が死去したことにより発生した御館の乱にも介入し、この際の対応の誤りから北条氏政をも敵に回すことになり、武田家は北の上杉氏を除く3大勢力から攻撃を受ける危機的状況となる。
天正9年(1581年)3月22日には、家康により遠江国高天神城が陥落(高天神城の戦い)。これにより、勝頼の威信は大きく低下して武田家は動揺する。
そして天正10年(1582年)2月、勝頼の妹婿である木曽義昌が信長に通じて武田家から離反。これにより、信長は嫡子の織田信忠の軍勢を主力とした大軍を武田領に侵攻させ、武田征伐が開始される。
勝頼は木曽討伐に動くが、2月16日に武田軍は鳥居峠の戦いで木曽軍に大敗。さらに、織田に通じて小笠原信嶺が、徳川に通じて穴山信君など、武田の諸将は次々と勝頼から離反し、信濃国の武田軍は仁科盛信の高遠城を除いて組織的な反攻もできないまま総崩れになった。
勝頼は新たな居城として築城した新府城を放棄して焼き払い、逃走を開始。この際、江戸時代の史料では、真田昌幸の岩櫃城か、小山田信茂の岩殿山城のどちらかに逃げる事が話し合われ、勝頼や一門重臣らは武田家と縁戚であった小山田信茂の岩殿山城を頼って逃げる事を選択した、とされている。
しかし、小山田信茂は勝頼を土壇場で裏切り、岩殿山城に匿うことを拒否。こうして八方塞がりとなった勝頼は、天目山を目指して逃げる事になった。
天目山の戦い[編集]
『甲乱記』によると、勝頼とその一行は逃げる際には地下人すら逃散して人夫や馬の調達すらままならなかったという。また、兵士の逃亡が相次ぎ、天目山に逃げ込んだ頃には41名ほどになるまで逃亡していたとされる。
そして、甲府を占領した織田信忠により差し向けられた織田家の重臣・滝川一益の軍勢に捕捉され、戦いとなった。これが「天目山の戦い」であるが、武田軍41名に対して滝川軍は数千人と最早戦いではなく掃討戦に近いものであった。
武田軍は「片手千人斬り」の異名で知られる土屋昌恒が奮戦するなどしたが、最初から勝敗は明らかで、勝頼に最後まで従ってきた女房衆は天目山で自害。将兵は討ち死に、あるいは自害していった。
そして勝頼は、信玄の遺言に従い16歳になっていた信勝に正式に武田家督、並びに御旗楯無の鎧を譲って儀式を済ませた後、信勝と共に自害。ここに、平安時代末期から400年以上にわたって勢力を誇ってきた甲斐武田家は滅亡した。