捕虜
捕虜(ほりょ)とは、戦争時に投降してきた敵の軍人または敵国人として逮捕された民間人のことである。
概要[編集]
戦争中に敵軍に捕らえられ、軍事的理由によって自由を奪われるもので、国際法上一定の待遇を保障される。軍隊構成員である交戦者(戦闘員、非戦闘員)と軍隊随伴者(従軍記者、酒保商人など)及び政治上、軍事上重要な地位にある者は捕虜とされる。捕虜を捕獲した国家は、捕虜を戦場から隔離して収容した上で、給養する義務を負い、反面平和的労働に従事させることができる(1949年に成立した捕虜の待遇に関する条約より)。
古くは捕虜は俘虜(ふりょ)と呼ばれた。
投降したからには殺すわけにはいかず、帰国を認めれば敵の戦力になってしまう厄介な存在である。
沿革[編集]
19世紀まで[編集]
古代ギリシアでは奴隷にされることもあった。この手法は他の国も同様で、ガレー船の漕ぎ手にもされた。ここから脱するには逃亡か、身代金の支払い、主人の恩情に頼るしかなかった。また、条約が未整備な時代、捕虜の扱いに困って殺害してしまうこともあった。
20世紀以降[編集]
- 太平洋戦争で補給を絶たれ、餓死寸前で捕虜となった日本兵は毎日、三食、食わせてもらい「アメリカの兵隊は食い物に不自由していないのか」と驚き、同時に「この戦争は負ける」と悟ったという。
- 逆に太平洋戦争で日本の捕虜になったアメリカ兵には最悪の待遇が待っていた。YouTube 動画リンク
- 日露戦争当時には、日本は捕虜を馬鹿丁寧に扱っていた。収容所に入れはしたが、捕虜は自由に町に遊びに行くことができたという。日本は国民に「敵の捕虜も、自国のために勇敢に戦った軍人であり、敬意を表するように」と厳命していた。ロシア兵捕虜に日本の将校よりも良い食事をさせていた。階級の高い捕虜には、国から妻子を呼び寄せて、貸し与えた一戸建ての家で暮らすことも認めていたという。日本政府は、日露戦争で中立的な立場にあったフランスを介して、捕虜になったロシア兵の給料を預かり、捕虜たちに給料を渡していた。日本の焼酎はロシアのウォッカに似ており、ロシアの兵から好まれた。ロシア兵が焼酎を買いにくるので酒屋は繁盛したという。
- 日本は捕虜の待遇が良いと評判になると、ロシア兵は先を争って投降したという。
- 日本は捕虜をどの程度に扱えば良いか分からず、結果的に馬鹿丁寧な扱いになってしまったようである。
- 捕虜のロシア兵の多くが、全くロシア語の読み書きができないことから、収容所に学校を作り、捕虜にロシア語の読み書きを教えてあげたという。別の情報によると、捕虜の中にいたヨセフ・トランペルドールというユダヤ系のロシア人が中心になって、そのようなことを始めたようである。
- 近年、愛媛県の松山城の古井戸の底から1899年に作られたロシア金貨が発見された。そのロシア金貨にはロシア人男性の名前と、日本人女性の名前とが刻み込まれていた。これは捕虜のロシア兵と、その交際相手の日本人女性が、再会を願って投げ込んだものだとされている。この金貨の発見が切っ掛けとなり松山城はデートスポットになった。
- 日本は第一次大戦でも、ドイツ兵捕虜を馬鹿丁寧に扱った。ドイツ兵捕虜の収容施設では、ドイツ兵捕虜によって音楽や料理(ソーセージ)などの文化が広まった。
- 少し前まで鎖国していた日本は、捕虜をどのように扱うのが妥当なのか分からず、馬鹿丁寧な扱いになってしまったようである。
- 紳士の国であり、騎士道の本家家元であるイギリスは第2次世界大戦で捕虜のイタリア兵を紳士的に扱った。しかし、料理が激烈に不味いのがイギリスの伝統。イギリス料理の不味さにイタリア兵たちは「こんなモノ食えるか!」と本気で怒ったという。それを見たドイツ兵捕虜たちは「あいつら戦場では本気を出さず、下らないことに本気出しやがって。俺たちが捕虜になったのはイタリアのせいだ」と怒りたいけどイタリア兵は一応、盟友なので腹を立てるわけにもいかず我慢を余儀なくされた。勇敢だが捕虜になると従順になってしまうドイツ兵は、捕虜になっても敵を悩ませ続けるイタリア兵の態度を見倣うべきかも知れない。収容所に配属されているイギリス軍人は捕虜のイタリア兵から文句ばかり言われて皆ノイローゼになってしまったという。
- 逆にイタリアの捕虜になったイギリス兵たちはイタリア料理を食わせてもらい、その旨さに感動したが「どうしてイタリアは、捕虜の俺たちに無料でこんな旨いものを食わせるのだろうか?理由があるに違いない。明日辺り銃殺刑にされるんじゃないだろうか?」と思ってビビったという。
https://youtube.com/shorts/A5uVzrpSUmc?si=WwIOZFA83-fVIa4S
金貨の真相[編集]
松山城の古井戸で発見された金貨は1899年製10ルーブル金貨、当時の10ルーブルは今の30万円に相当する高額なものである。穴があけられてペンダントとして使われていた形跡がある。
金貨に刻み込まれていたロシア人男性の名前は片仮名で「コステンコミハイル」であった。捕虜の中に「ミハイル・コステンコ」という負傷した陸軍将校がいたことが確認されている。
もう一つの名前は「タチバナカ」と読み取れたが該当する人物が見付からなかった。しかし「竹場ナカ」という看護婦がいたのである。負傷していた捕虜の将校と、その世話をしていた看護婦が愛し合うようになり、コステンコは愛する女性に手製のペンダントをプレゼントしたようなのである。
コステンコは怪我が治ると静岡の収容所に移された。日露戦争が終わり帰国するがロシア革命が起こりアメリカに移住したものの若くして死亡したという。
竹場ナカは捕虜との交際を理由に解雇され、その後、親が決めた相手と結婚、1975年に死亡した。
どのような状況で金貨は井戸に投げ込まれたのか?考えられる可能性
①別れる前に二人で投げ込んだ。
②別れた後に竹場ナカが一人で投げ込んだ。
③親が決めた相手との結婚が決まったとき、竹場ナカが元彼から貰ったペンダントを一人で泣きながら投げ込んだ。