秋山昌成
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秋山 昌成(あきやま まさなり、? - 天正10年(1582年)3月)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。子に内記[1]。父は秋山万可斎で、母は武田勝頼の生母・諏訪御料人の侍女[1]。官途は内記[2]、後に摂津守[1][3]。
生涯[編集]
武田信玄の時代に遠山夫人と武田勝頼の結婚で父親が功を立てたことと、母親の縁から勝頼に重用された[1]。そのため跡部勝資や長坂虎房と並ぶ勝頼の有力側近であり、天正2年(1574年)3月に龍朱印状奏者として見えるのが史料上では初見となる[1]。天正7年(1579年)に摂津守に改称している[1]。
甲斐武田氏滅亡直前まで朱印状を出していることからかなりの側近の地位にあったことがわかる。ただこれは疑問視もされている。織田信長の武田征伐では小山田信茂に同調して勝頼を土壇場で裏切って延命を図ろうとしたが、信長は許さず昌成は父親と共に古府中で処刑された[1][3]。息子の内記も高遠において信長により処刑された[1][2]。なお、『甲乱記』では大熊長秀や甘利信頼らと共に離反したと記録されている。
勝頼を裏切ったことから江戸時代には「武田浪人」としての偽書が作成されるほどであり、史料上の扱いには注意を必要とする。