出家
出家(しゅっけ)とは、戒律を授かって世俗を離れ、仏門に入ることである。つまり僧侶・坊主になることである。落飾(らくしょく)とも言われる。
概要[編集]
昔の日本では正式に僧侶になるには国家試験のような物は存在していた。それに合格すると出家して仏門に入ることになるが、これを官に許可された僧侶と言う意味合いから官僧という。ただ、全ての僧侶が国家試験を受けて僧侶になるわけではなく、官に許可を受けずに出家する例も少なくなく、これを私度僧と呼んで区別していた。
ただ、出家とは単に僧侶になるという意味で使用されていたわけではない。例えば平安時代後期の白河天皇は出家して法皇となり、若年の天皇を後見する院政を行なっており、鎌倉時代に僧籍だった後高倉院に至っては即位せずに太上天皇の称号を受けている。
戦国大名の武田信玄・上杉謙信・斎藤道三なども出家しているが、政治の実権は掌握し続けた。これらは出家することで信仰心に篤い支配者としての権威づけを目的のひとつとしている。例えば出家する前の信玄は晴信、謙信は輝虎、道三は利政と名乗っており、これらはいずれも出家したことによる道号である。つまり彼らは出家することで、本来は殺生を禁止する仏教において、支配下の領民の安寧を守る支配者が外敵と戦うことは無益な殺生ではないと解釈し、仏教の加護を受けた支配者としての権威づけをしているのである。
加えて、出家には敗戦、不祥事、改易などの危機的状況の際に、自ら出家してその危機を凌ぎきるという意味合いで行なわれる場合もあった。つまり「出家するので今後は一切反逆する意思はありません」と意思表示して許しを請うために行なわれるものである。
例えば、石田三成の嫡男・重家などは、父親の関ヶ原の戦いでの敗戦後に京都・妙心寺で出家して仏門に入っている。本来、敵将の嫡男は後難を避けるために殺害されるのが通例だったが、徳川家康はこれを許して重家を助命している。また、豊臣秀頼の庶出の娘は、秀頼の正妻の千姫の助命嘆願で仏門に入って天秀尼となっている。
ただし出家したから生命は助けられても、その後の生活には制限が付けられる。妻帯等は許されないので妻や夫を持てず、つまり後継者を作ることもできなくなる。つまり武士の社会で最も使命とされている男系の家名存続が図れなくなるのである。また殺生も許されないので、敵に敵討ちをすることもできなくなる。
また、長男以外の兄弟を仏門に入れて、万一長男に何かあれば仏門にいる弟を新たにスペアする場合にも出家が活用されていた。室町時代の足利将軍家などがまさにそれで、第5代将軍・足利義量の後継者をめぐり、仏門にいた叔父・足利義教が還俗して第6代将軍に就任している。また、第13代将軍・足利義輝が永禄の変で三好三人衆に暗殺された際も、仏門にいた弟の義昭が還俗して後に第15代将軍に就任しており、出家はいわゆる御家存続の人材確保の場としても機能していた。