上杉教朝
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上杉 教朝(うえすぎ のりとも、応永15年(1408年) - 寛正2年(1461年))は、室町時代中期の武将[1]。父は上杉禅秀[1]。兄弟に憲方、憲秋、憲春、持房、快尊、禅欽蔵主。子に一色政熙、政憲。養子に朝定。官途は治部大輔・伊予守[1]。
生涯[編集]
幼少時は常陸の大掾氏に養育された[1]。応永24年(1417年)に上杉禅秀の乱を起こした父の禅秀が足利持氏により自殺させられると京都に逃れて剃髪し、出家した[1]。しかし第6代将軍・足利義教の命令を受けて還俗して幕臣となる[1]。
永享の乱や結城合戦では幕府軍の有力な大将の1人として従軍し、特に後者では敵の総大将である結城氏朝の首を取って京都に送り届けた[1]。義教没後も幕府に仕え、第8代将軍・足利義政の時代に兄弟の政知を関東に下向させた際にはそれに従った[1](堀越公方)。
寛正2年(1461年)に死去[1]。享年54[1]。死因に関しては流行していた疫病が原因の病死説、あるいは自殺説がある[1]。
法名は大勝常進[1]。