足利義視
足利 義視(あしかが よしみ、永享11年閏1月18日(1439年3月3日) - 延徳3年1月7日(1491年2月15日))は、足利家の一族。義視本人は征夷大将軍になっていないが、息子の義稙が第10代将軍となったので准三后となり大御所と称され、義稙の後見人としてほとんど将軍と変わらない地位にあった。官位は正二位准三后[1]。贈従一位太政大臣。
生涯[編集]
父は第6代将軍・足利義教で10男[2][1]。兄弟に義勝、政知、義政、義永、義尭、義観らがいる。子に義稙、実相院義忠、慈照院周嘉、水野義純、照禅院了玄。元の名は義躬[2]。
兄に義勝や義政がいたため後継者となる可能性は低く、幼少時に浄土寺に入って義尋(ぎじん)と称し僧侶となった[2][1]。しかし兄で第8代将軍の義政に当時は男子が無かったため、義政の要請で継嗣となって還俗し[1]、義視と名乗って今出川邸に住んだので今出川殿と称された[2][1]。ところが寛正6年(1465年)に兄の義政と日野富子との間に息子の義尚が生まれると日野富子との間に将軍職をめぐる対立が起こり[1]、この将軍職争いに守護大名の細川勝元と山名宗全、畠山氏や斯波氏の家督争いも絡んで応仁の乱の一因となってしまう[2]。
義視は応仁2年(1468年)に京都を脱出して伊勢の北畠教具の下に亡命する[2]。文明元年(1469年)に義政の要請を受けて帰洛し、東軍の細川勝元の陣営に入った[2]。ところが帰洛後は兄の義政との間に円滑を欠いたので義視は比叡山に逃れようとしたがその途上で西軍の山名宗全に奉じられて義政の対抗馬にされてしまい[2]、四国や九州の諸大名に対して入京を促す命令を出している[1]。
文明9年(1477年)に応仁の乱が終焉すると、美濃の守護である土岐成頼の下に亡命する[2][1]。延徳元年(1489年)にかつて義視と将軍職を争い第9代将軍となっていた義尚が死去すると、兄の義政は第10代将軍に義視の子である義稙(義材)を指名したので、義視は義稙と共に上洛し、この際に義視は三条通玄寺で剃髪して道存(どうぞん)と号した[2]。また義稙が将軍となったので義視は大御所と呼ばれて幕政を後見した[2][1]。
延徳2年(1490年)に義稙が正式に征夷大将軍に輔せられたのに伴い、義視は准三后に任じられる[2][注釈 1]。延徳3年(1491年)1月7日に三条通玄寺にて死去した[2]。享年53。奇しくも没日は兄の義政の一周忌であった。
朝廷より贈従一位太政大臣が贈られた[2]。法号は大智院久山道存[2]。
脚注[編集]
- 注釈
- 出典