義永

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義永(ぎえい、永享6年7月25日1434年8月29日) - ?)とは、室町時代中期の足利将軍家の一族。

生涯[編集]

父は室町幕府の第6代征夷大将軍足利義教。母は側室宮内卿局。生年から第7代将軍・足利義勝とは同年生まれであるが、誕生日は義勝のほうが数ヵ月早く、また母親が正室と側室という差があることから、後継者からは除外されていたと見られる。第8代将軍・足利義政より年上だが、やはり母親の違いからか第8代将軍には選ばれていない。

義教の存命中に左馬頭に叙任されており、恐らく永享の乱足利持氏が討たれた後、後任の鎌倉公方候補者とされていたと見られる。しかし、この計画は嘉吉の乱で義教が暗殺されたことから頓挫し、出家して義永と名乗って小松谷本願寺の長老になった。このため、通称は小松殿といわれた。

長禄2年(1458年)4月19日、当時将軍となっていた異母弟の義政に対し、泉涌寺雲龍院の長老の座を望んだが、この際に義永が僧の身でありながら妻帯していたこと、悪事を企てたことなどを義政から咎められて捕縛され、隠岐国流罪に処された。その後の行方は不明である。