富山城

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
夕暮れの富山城
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが富山城の項目をおカタく解説しています。

富山城(とやまじょう)とは、現在の富山県富山市本丸1-62にかつて存在した日本である。

概要[編集]

現在の富山駅の南およそ1キロ、富山市街地のほぼ中央に存在した平城であり、別名を安住城(あずみじょう)とも浮城(うきじろ)とも言う。

この城は戦国時代天文12年(1543年)に、当時の越中国守護代であった神保長職の家臣・水越勝重によって築城されたと言われている。ただ、水越が築いた当時の富山城は現在の位置では無く、富山市内の堀端町、あるいは星井町近辺ではなかったかとする説も存在している。

この城は神保氏居城とされるが、神保長職は甲斐国武田信玄加賀一向一揆と手を結んで、越後国上杉謙信とたびたび争ったので、その侵攻を受けることになる。元亀3年(1572年)に信玄が西上作戦を開始するに至り、謙信を牽制させるために信玄は加賀・越中の一向一揆に神保氏を動かして謙信と戦わせ、謙信は越中に攻め込んで富山城を落としている。ただし、後に奪回されている。元亀4年(1573年)4月に信玄が陣没すると、武田氏の勢力は衰退したので、今度は上杉謙信と越中勢力の戦争が開始される。しかし、信玄の援助の無い越中勢力に謙信と対抗することはできず、天正4年(1576年)に富山城は謙信によって落とされた。神保氏は射水郡守山城に逃れるが、ここも謙信に落とされて越中は完全に上杉氏の支配下となった。

天正6年(1578年)3月に謙信が急死すると、上杉氏では後継者をめぐる御館の乱と称される御家騒動が開始され、この機に乗じて織田信長は長職の遺児である長住に家臣の斎藤利治を付けて越中に攻め込ませ、富山城を奪回させている。以後、富山城は織田方の越中支配の重要拠点となる。ただし長住は失策を理由にして後に信長の命令で追放され、天正9年(1581年)に信長の重臣・佐々成政が富山城主に任命された。天正10年(1582年)6月、成政は柴田勝家らと協力して上杉方の魚津城を落城させたが、同時期に本能寺の変が起こって信長が明智光秀のために横死したため、それ以上の侵攻はできずに撤退している。

天神山城・宮崎城の上杉勢と対峙する成政は、神通川の氾濫により呉羽山麓を流れていた川の流れが富山城の後方に向きを変えたことから、富山城の大々的な改修を開始した。東の常願寺川、西の神通川の防備を第一線として、城の東側に新たにいたち川を堀削して河川によって富山城の守備をさらに強固にしようとしたのである。

信長の没後、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて自害し、天下がほぼ秀吉のものとなろうとしたが、成政はこれに対して信長の次男・信雄を擁して挽回しようとした。しかし小牧・長久手の戦いは秀吉優位のまま講和が成立してしまう。成政はこのとき、天正12年(1584年)11月下旬に雪の立山を越えて遠江国浜松城徳川家康を訪問して支援を要請したが、拒絶されて再度、立山を越えて富山城に戻っている(さらさら越え)。

天正13年(1585年)8月、豊臣秀吉の越中征伐で、倶利伽羅峠の守備を破られて富山城に雪崩込まれた成政は、万策尽きて秀吉に降伏し富山城は破却された。この時、秀吉から神通川の西3郡は前田利長に与えられた。大坂に留め置かれていた成政は、天正15年(1587年)の九州征伐後に肥後国移封される。

文禄4年(1595年)には蒲生騒動により利長に越中の残る新川郡も加増され、青山吉次(佐渡)・長正父子が上杉家の越中衆(土肥氏・柿崎氏・舟見氏など)から郡内の諸城を受け取る。これで越中は事実上、前田氏が完全に支配することになった。関ヶ原の戦いで東軍についた利長は、旧領61万石余[1]に利政の能登21万石と南加賀の丹羽・山口領を加増、再検地で119万5千石となる(のち富山10万石と大聖寺7万石を分離したため加賀藩は102万5千石。富山分与は後述)。

慶長10年(1605年)に利長は異母弟で養子利常に家督を譲ると、再び富山城が再建され隠居城となる。ところが、慶長14年(1609年)3月に富山城下で大火が発生し、富山城も焼失してしまう。このため、利長は魚津城を新たな隠居城に定めて移り、後に高岡城に移ったため、富山城は火事で焼失してから30年間も焼け跡のまま放置されてしまうことになった。

寛永16年(1639年)、前田利常が隠居する際、次男の利次に10万石を与えて富山に分知したことから、富山藩が成立する。利次は富山城の修築に取りかかり、以後富山城は明治維新まで富山藩前田家13代の居城として富山に君臨した。

現在の富山城跡は富山城跡公園(とやまじょうあとこうえん)となっている。ただし富山藩前田家の時代の堀、石垣、土塁などの旧構がよく遺されており、一隅に建つ三層の天守閣は昭和29年(1954年富山産業大博覧会が開催されたのを機に、慶長年間(1596年から1615年)の築城法を取り入れて建てられたものと言われている。園内には緑が多く、児童公園や野外劇場があり、富山市民の憩いの場として現在も広く親しまれている。なお、公園の北側には富山藩の第2代藩主殖産興業に尽力し、富山の有名な薬となった反魂丹の製法や行商に力を入れた前田正甫の銅像も建立されている。

特記事項[編集]

  • 土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲の「荒城の月」の着想の基になった城の一つとされる[2]。(他には岡城会津若松城など)
  • 作曲の廉太郎は富山市内での居住経験があり[3]、「秋に渡来し、翌春まで姿を見せる雁の鳴き声が、富山城を照らす月の夜には、りょうりょうとして特に鋭く聞こえ、今も耳に残っています。」と述べている[4]
  • 作詞の晩翠は東京大学大学院に居り、赤門の加賀藩邸敷地内にあった富山藩邸の居城、富山城を題材の一つに取り上げたとも言われる。二番歌詞「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて」は、謙信の漢詩「九月十三夜」に加え、越中での和歌「枕に近き初雁の声」をも連想させる。

アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. 関ヶ原前の前田家合計の総石高は83万石余(能登にある長氏の分を含む)
  2. 『日本百科全書』(小学館、全25巻)「荒城の月」記事など。
  3. 「瀧吉弘(廉太郎の父)履歴書」(富山県転任退官等高等官履歴、富山県公文書館蔵)
  4. 『荒城の月』(山田野理夫著・恒文社)、「北日本新聞・平成元(1989)年1月11日記事」。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

北海道

志苔館 | 上ノ国勝山館

東北

浪岡城 | 九戸城 | 白石城 | 脇本城 | 秋田城 | 鶴ヶ岡城 | 米沢城 | 三春城 | 向羽黒山城

関東

笠間城 | 土浦城 | 唐沢山城 | 名胡桃城 | 沼田城 | 岩櫃城 | 忍城 | 杉山城 | 菅谷館 | 本佐倉城 | 大多喜城 | 滝山城 | 品川台場 | 小机城 | 石垣山城

甲信越

新府城 | 要害山城 | 龍岡城 | 高島城 | 村上城 | 高田城 | 鮫ヶ尾城

北陸

富山城 | 増山城 | 鳥越城 | 福井城 | 越前大野城 | 佐柿国吉城 | 玄蕃尾城

東海

郡上八幡城 | 苗木城 | 美濃金山城 | 大垣城 | 興国寺城 | 諏訪原城 | 高天神城 | 浜松城 | 小牧山城 | 古宮城 | 吉田城 | 津城 | 北畠氏館 | 田丸城 | 赤木城

近畿

鎌刃城 | 八幡山城 | 福知山城 | 芥川山城 | 飯盛城 | 岸和田城 | 出石城有子山城 | 黒井城 | 洲本城 | 大和郡山城 | 宇陀松山城 | 新宮城

中国

若桜鬼ヶ城 | 米子城 | 浜田城 | 備中高松城 | 三原城 | 新高山城 | 大内氏館高嶺城

四国

勝瑞城 | 一宮城 | 引田城 | 能島城 | 河後森城 | 岡豊城

九州

小倉城 | 水城 | 久留米城 | 基肄城 | 唐津城 | 金田城 | 福江城 | 原城 | 鞠智城 | 八代城 | 中津城 | 角牟礼城 | 臼杵城 | 佐伯城 | 延岡城 | 佐土原城 | 志布志城 | 知覧城

沖縄

座喜味城 | 勝連城

関連項目 日本100名城