若桜鬼ヶ城
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若狭鬼ヶ城
天守台跡 | |
別名 | 若桜城、若佐城、鬼ヶ城 |
城地種類 | 山城 |
縄張 | 連郭式 |
城郭年代 | 近世 |
築城者 | 矢部暉種? |
主要城主 | 矢部暉種〜吉茂、山名氏、尼子氏、山中幸盛、八木豊信、木下重堅、山崎家盛 |
近年の復元や整備 | 案内誘導番・二之丸作業小屋の設置 |
天守の現状 | 破壊された天守台のみ存在 |
日本・続日本100名城スタンプ設置場所 | 二之丸作業小屋前 |
若狭鬼ヶ城(わかさおにがじょう)とは、因幡国若桜に存在した日本の城である。
概要[編集]
正治2年(1200年)、源頼朝に仕えた御家人の矢部暉種が全身となる城館を築いたと伝えられている。それから鎌倉を駆け抜けて、14代城主であり矢部氏最後の当主である矢部吉茂が隣国の守護大名・山名持豊と争い、吉茂は敗退して切腹。その後新たに城を治めた尼子氏が100年に渡りこの中世城館を支配し続けたが、永禄3年(1561年)に尼子氏が滅ぼされ、因幡国は毛利元就らによって統一される。
しかし尼子氏再興を図った尼子氏の家臣・山中幸盛がこの城に入城して挙兵する。幸盛と毛利勢では激しい戦いが繰り広げられ、その後幸盛が備中松山城近辺で暗殺されると、毛利氏が再び因幡を編入した。その後毛利氏家臣の八木豊信が入城したが、天正9年(1581年)に羽柴秀吉の中国攻めで落城。秀吉の家臣・重堅が入った。
重堅死後、関ヶ原の戦いの戦功で領地を与えられた山崎家盛がこの城に入城して近世城郭に整備。天守台や六角櫓など、野面積みの石垣を使った城に整備したが、家盛の転封に伴い廃城、幕府により取り壊された。