大多喜城
大多喜城(おおたきじょう)とは、現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
大多喜駅の西およそ500メートル、夷隅川の北岸に迫る尾根の突端部に残る平山城の遺構である。現在は大部分が千葉県立大多喜高校の構内となっている。
この城は戦国時代の大永元年(1521年)、甲斐武田氏の一族である真里谷城主・武田信興(真里谷信興)の次男・武田信清(真里谷信清)の築城といわれる。武田姓では無く、地名から真里谷氏を称した。真里谷とは現在の木更津市のことである。ただし当時は大多喜根古屋城(おおたきねごやじょう)と称しており、北東へ1.5キロほど離れた岡保台にあったという。
真里谷氏は2代目の武田朝信(真里谷朝信)の天文13年(1544年)、里見義堯の家臣・正木時茂に攻め滅ぼされた。その後、正木氏は天正18年(1590年)の小田原征伐で没落した。この小田原征伐で後北条氏も滅亡し、新たに関東の太守となった徳川家康は、重臣で徳川四天王のひとりである本多忠勝に10万石を与えて大多喜根古屋城主に任命した。忠勝はこの城が中世的で近世の戦いには向いていないと判断し、現在の遺構となる大多喜城を新たに築城した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで忠勝は武功を立てたため伊勢国桑名藩に移封され、その次男の本多忠朝に大多喜は継承された。だが、忠朝の没後に甥の本多政朝が継承するが、この時に政朝は播磨国龍野藩に移封された。
以後、譜代大名の阿部氏、青山氏、そして再び阿部氏、稲垣氏と城主がたびたび変わり、徳川綱吉時代の元禄16年(1703年)に大河内松平氏の松平正久が2万石で入封してようやく藩主家が定着する。以後、大河内松平氏が9代にわたって城主を歴任して明治維新を迎えて、幕末の石高は2万7200石になっていた。
この城は急斜面に囲まれた一段高い本丸と2の丸・3の丸に分かれ、本丸跡には土塁、2の丸跡には大井戸や薬医門が遺存している。大井戸は本多忠勝が築城した時に掘られたもので、周囲およそ10メートル、深さは20メートル以上と言われ「底なしの井戸」などとも呼ばれている。このため、大多喜城は千葉県指定の史跡となっている。
本丸跡には昭和50年(1975年)夏に完成した復元の天守閣があり、その内部には千葉県立総南博物館があり、本多忠勝ゆかりの遺品や民俗資料、古文書などが展示されている。
千葉県立総南博物館[編集]
大多喜城本丸跡にある博物館である。大多喜城の天守閣は第8代藩主・松平正和の時代である天保14年(1843年)7月に大火事により焼けた後は再建されなかった。現在の天守閣は昭和50年に再建されたが、これは大多喜町の久保に存在する旧家である渡辺家住宅の土蔵から発見された本多忠勝が天正18年に築城した大多喜城を天保11年に模写した天主絵図を参考に、小田原城や会津若松城を設計した東京工業大学名誉教授・藤岡通夫が絵図面と同じ形に設計して再現したものである。
博物館には本多忠勝ゆかりの鎧一式や房総半島の歴史、民俗資料、貴重な古文書など数百点が集められている。