富山藩
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富山藩(とやまはん)は越中国富山に藩庁をおいた幕藩体制下の外様の藩である。
藩の成立[編集]
1639年(寛永16年)、加賀国守前田利常が隠居するときに、次男の前田利次に富山10万石、三男の前田利治に大聖寺7万石を分封するよう江戸幕府に願い出て許可され、金沢藩の支藩として富山藩が成立した。
当初は婦負郡百塚に新たに城を築く予定であったが、財政的に無理であることが判明した。藩庁を置く富山城が加賀藩領内のため、1660年(万治3年)に加賀藩と領地交換を行い、新川郡の舟橋・水橋地区が富山藩領となり、富山藩領が確定した。加賀藩より富山城を譲り受けそのまま居城となった。
明治維新期の版籍奉還によって、13代利同は知藩事となったが、まもなく廃藩置県となった。
藩の成立事情[編集]
加賀藩はその大きさのため警戒され、江戸幕府に厳しく監視されていた。その監視をやわらげるため、前田利常は富山藩と大聖寺藩を分藩したと言われる。
前田家の分家には他に利常の異母弟を藩祖とする上野国の七日市藩もあった。
薬売り[編集]
富山藩第2代藩主の前田正甫は、製薬業に関心があり、江戸城腹痛事件で名をあげた反魂丹を製薬して諸国へ広め、越中売薬の基礎を作った。