出石城
出石城(いずしじょう)とは、兵庫県(但馬国)に存在した城である。江戸時代には出石藩の藩庁となった。
概要[編集]
安土桃山時代[編集]
安土桃山時代の天正2年(1574年)、当地の守護大名であった山名祐豊が築城したと伝わる。6年後に織田信長の命令を受けた羽柴秀吉が侵攻して落城し、秀吉は弟・羽柴秀長の家臣・青木重矩を城主として入れた。後に秀吉の信長時代からの古い付き合いである前野長康が城主となるが、文禄4年(1595年)の秀次事件で長康は処分され、新たに播磨国龍野城から秀吉の縁戚である小出吉政が6万石で入った。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで吉政は西軍に属したが、弟の秀家が東軍に属して功績を挙げたので、所領安堵されて出石藩が成立した。
江戸時代[編集]
慶長9年(1604年)、吉政の子・吉英が城郭を東麓に移して新たな城を築城する。以後、小出氏が8代、藤井松平氏を経て、宝永3年(1706年)1月に仙石氏が入ることで、ようやく出石藩主は定まった。以後、仙石氏が出石藩主として続いて明治時代を迎えた。
この藩には特に目立った治績は無いが、江戸時代後期に仙石騒動と呼ばれる御家騒動が起きたことで知られている。この騒動で仙石氏は江戸幕府からお咎めを受け、御家存続こそ許されたが石高は5万8000石から3万石に減封となっている。
現代[編集]
この城は出石の市街の南側にそびえる標高331メートルの城山一帯にあった山城で、現在の山麓部には小出吉英が築いた本丸、2の丸、3の丸の石垣がほとんど完全な形で残されており、昭和43年(1968年)に復元された本丸隅櫓と共に往時をしのばせている。本丸跡は東西およそ70メートル、南北36メートルほどの広さで、城の鎮守であった稲荷社が鎮座し、初午大祭が毎年3月の第3日曜日に開催されている。2の丸跡には、昭和時代前期の戦争の時代に、粛軍演説をして議員の座を追われたことで有名な斎藤隆夫の磧徳碑が存在する。城山の頂上には、旧城の石垣が現存している。
アクセス[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]