臼杵城

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臼杵城(うすきじょう)とは、現在の大分県臼杵市大字臼杵91番地にかつて存在した日本である。現在は臼杵公園(うすきこうえん)となっている。

概要[編集]

臼杵駅の北西およそ400メートルにある臼杵湾岸にある丹生島と呼ばれる小さな丘の上に存在していた城である。そのため、別名を丹生島城(にうじまじょう)と言われていた。

この城が築城されたのは永禄5年(1562年)で、当時豊後国を支配していた戦国大名大友宗麟の命令によるものである。宗麟は家督を嫡男義統に譲って隠居すると、この臼杵城を隠居城として府内城から移った。宗麟は隠居したとはいえ実権はなおも掌握しており、そのため豊後の中心地が府内から臼杵に移り、当地にはキリスト教宣教師が訪れ、ノビシャド(修練所)が置かれ、臼杵が事実上の九州におけるキリスト教布教の中心地となった。

宗麟は天正6年(1578年)の耳川の戦い島津義久に大敗すると、一族や家臣の離反にあって急速に勢力を失う。逆に勝利した島津義久はさらに勢力を拡大し、天正14年(1586年)には遂に豊後に攻め入るまでになった(豊薩合戦)。弱体化した大友軍は島津軍による攻撃を抑えきれず各地で敗走したが、宗麟は臼杵城に籠城してポルトガルから輸入していた大砲で宗麟が「国崩」と名付けたものを城内に据え付けて応戦した。この大砲攻撃と四方を臼杵湾の断崖に囲まれた城の前に島津軍は臼杵城を攻めきれず、最終的に敗走している。その後、豊臣秀吉九州征伐を受けて島津軍は降伏した。

宗麟没後の文禄2年(1593年)、義統は秀吉による朝鮮出兵に参加したものの、卑怯な振る舞いがあったとして改易され、代わって秀吉の譜代の家臣である福原直高、次いで太田一吉など豊臣氏恩顧の大名が城主となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、かつて織田信長に仕えて西美濃三人衆の一人に数えられた稲葉一鉄の子・貞通美濃から5万石で入封することで、幕藩体制下における臼杵藩が成立する。以後、臼杵藩は藩主が稲葉氏のまま16代に及んで、明治維新を迎えた。

現在はかつて城があった周囲は埋め立てられて、臼杵市の中心街になっている。城跡は臼杵公園となっているが、本丸跡や二の丸跡、2層の塁櫓、卯寅口門脇櫓、石塁などが残っており、大分県の史跡に指定されている。二の丸跡中央の護国神社脇には江戸時代後期の天保年間に臼杵藩で家老として緊縮財政政策を採用して藩財政を再建したことで知られる村瀬庄兵衛の功績碑が建立されており、本丸跡北側には明治10年(1877年)の西南戦争西郷隆盛軍を迎え撃って郷土の防衛にあたって戦死した勤皇臼杵隊の顕彰碑が建立されている。

当地は桜の名所としても知られており、ヨシノザクラが600本余りも植えられている。花の見ごろは4月上旬に観光桜祭りが開かれる頃で、多くの人で賑わっている。

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臼杵城を題材とした作品[編集]

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