神保長住

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神保 長住(じんぽ ながずみ、生没年不詳)は、戦国時代武将越中守護代として同国を支配した神保氏の一族。

生涯[編集]

神保長職の長男とされる。父の長職が越後上杉謙信を頼ろうとしたのに対して長住は反対し、永禄年間に父と内紛を起こしている。元亀2年(1571年)末頃に長職が死去したと推測され、その後に家督を相続したと思われる。長住は父と異なり、上杉謙信と一族を挙げて敵対した。そのため天正4年(1576年)に謙信の越中侵攻に遭い、越中から追放されて同国は謙信の支配下に入った。天正6年(1578年3月に謙信が死去すると、織田信長は謙信亡き後の上杉氏を攻めるべく画策し、4月7日に長住は二条城にいた信長の下に呼ばれて黄金などを与えられ、さらに佐々長穐らを付けられて飛騨経由で越中へ派遣された。これは越中における長住の影響力を信長が利用したものと思われる。書状などによると、同年6月23日に越中の大半を占領したと信長に対して注進していることなどが確認され、長住を利用した越中平定はかなりの効果があったものと推測される[1]

9月に信長は斎藤利治を新たな援軍として越中に派遣し、新川郡津毛城にいた上杉軍は敗れて長住が新たに入った。10月4日月岡野の戦いで斎藤利治軍が上杉軍を破ると、長住は利治から越中国衆の人質を任された。その後、冬に入ることもあり斎藤利治は信長の命令で撤退し、越中は長住に任され、11月11日能登長好連の援軍として出兵した[1][2]

以後は織田政権下の越中国主として知行執行などをした形跡があり、よほど国主に復帰したのがうれしかったのか、信長に対して天正7年(1579年10月と天正8年(1580年4月に馬を贈って感謝の意を示している。天正8年(1580年)8月新庄城を攻め、さらに松倉城の城下を攻めて放火した。9月には織田氏の北陸方面軍の大将である佐々成政が越中に進出し、長住の越中侵攻はさらに前進すると思われたが、天正9年(1581年2月に信長は佐々成政を越中国主として一職支配権を与え、長住・氏張ら神保一族は成政の与力とされることになって没落した。ただし、婦負郡射水郡に対して以後も長住が禁制を発するなど政治執行が行なわれていた形跡が確認できるので、この両郡の支配権は長住に帰属していたものと推測されている[2]

天正9年(1581年)2月、信長が行なった京都御馬揃えのために上洛し、3月12日には越中国衆を率いて近江安土城に赴いて信長に礼を述べ、馬を献上している。ところが長住の留守中に上杉軍の越中侵攻が行なわれたため、長住は佐々成政と共に越中に戻り、上杉軍に包囲されていた小出城を救援した。9月には柴田勝家の命令で国衆の唐人清房の調略と越中平定のさらなる推進を命じられている。ところが天正10年(1582年)3月に小島職鎮ら神保氏の旧臣が上杉方として反乱を起こし、富山城を守っていた長住を襲撃して捕縛・幽閉してしまった。この反乱は間もなく柴田勝家らによって鎮圧されて長住も助けられたが、信長はこの失態を知って激怒し、長住は失脚を余儀なくされてしまった[2]

本能寺の変賤ヶ岳の戦いを経た天正11年(1583年8月21日伊勢神宮に越中への帰還を祈願するのが長住の行方を示す最後の史料である[2]

脚注[編集]

  1. a b 『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館2010年。P237
  2. a b c d 『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館2010年。P238

参考文献[編集]