滝廉太郎
滝 廉太郎 たき れんたろう | |||||||||||||||||||||||||||||
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滝 廉太郎(たき れんたろう)は、作曲家。明治期を代表する音楽家である。「瀧 廉太郎」とも表記する。
経歴[編集]
- 1879年(明治12年)8月24日、東京市芝区南佐久間町2丁目18番地で長男として生まれる。父・滝吉弘は明治政府の内務省臨時御用取調の役人、母は滝正[1]。父は一等属官として、伊藤博文のもとで活動していた。
- 1880年(明治13年)3月27日、父、内務省御用掛。
- 1881年(明治14年)11月7日、父、任内務省権少書記。
- 1882年(明治15年)11月4日、父、任神奈川県少書記官、家族と横浜の官舎に転居。
- 1884年(明治17年)、弟・節次郎生まれる。
- 1886年(明治19年)
- 1888年(明治21年)4月20日、父非職。麹町上二番町二番地に転居。東京麹町小学校二年転入。
- 1889年(明治22年)3月14日、任大分県大分群長。大分市荷揚町の官舎に移る。滝廉太郎は年老いた祖母や病気の姉利恵とともに東京に留まる。
- 1890年(明治23年)
- 3月、東京麹町小学校卒業。
- 5月、大分県師範学校附属小学校高等科(現大分大学教育学部附属小学校)第一学年に入学。祖母・みち死亡。姉・利恵が東京で死亡。
- 8月17日、大分で妹・トミ(安部トミ)が生まれる。
- 1891年(明治24年)11月27日、任大分県直入群長。12月中旬、一家とともに馬車で大分県竹田に移る。
- 1892年(明治25年)1月8日、大分県直入群竹田高等小学校第二学年転入。5月同校第三学年進級。
- 1894年(明治27年)
- 4月、大分県直入群竹田高等小学校(現竹田市立竹田小学校)全科卒業。幼い頃から音楽に関心が高く、自己流のヴァイオリンやハーモニカを友人の前で演奏していた。また、竹田時代にオルガン演奏を小学校の新任教員である後藤由男(のち渡邊由男)に学んだ。南画家・佐久間竹浦や4学年下に彫刻家の朝倉文夫がいた。佐久間竹浦との交流は続き、廉太郎からの書簡や絵が残る。大分県府内町と奏楽堂にある滝廉太郎の銅像は朝倉文夫の製作である[3][4]。
- 5月、上京し、麹町区平河町三丁目十七番地の滝大吉の家に落ち着く。音楽学校受験準備のため、小山作之助先生が明治20年芝愛宕に開いていた芝唱歌会に入会する。
- 9月、東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)に入学。受験科目は読書(国語、漢文、講読)・作文・算術(四則・分数・小数・比例・開平・開立)・英語訳読(ナショナル第四読本程度)及び唱歌(文部省小学唱歌集)の五科であった。入学後は小山作之助、幸田延らに師事。
- 1895年(明治28年)
- 1月、麹町区富士見町3丁目29番地に移る。2月、本郷区西片町九番地に移る。
- 9月、父、非職。11月依願免本官。予科修了。本科入学。
- 11月9日、六年半の留学を終えた幸田延が帰朝し、12月から幸田教授の指導が始まった。音楽理論・ピアノ・作曲・声楽・バイオリンを教えた。滝はピアノ・作曲・声楽の指導を受けた。
- 1896年(明治29年)1月30日、同声会の常集会で非公開による幸田延の演奏会が行われ、無伴奏バイオリン曲「シャコンヌ」(J.S.バッハ)、独唱「トスティの歌」、「アベマリア」が披露された。
- 1896年(明治29年)12月12日、学友会音楽会でラインベルゲル作「バラード」を初独奏。
- 1897年(明治30年)
- 2月、「砧」作詞。
- 3月、「日本男児」作曲。
- 7月「春の海」作曲。
- 1898年(明治31年)
- 東京高等師範学校付属音楽学校 (現東京芸術大学音楽学部)本科専修部を主席で卒業する。卒業生総代として答辞を読む。
- 9月、研究科に進学。
- 12月、麹町区四番町四番地に移る。
- 1899年(明治32年)
- 9月、本校ピアノ授業も嘱託となり後進の指導を担当。一か月金拾円の給与。
- 10月30日、当分嘱託報酬を贈与せず、授業補助を命じ、手当として一か月金拾円給与。
- 1900年(明治33年)
- 8月、麹町区上二番町二二番地に移る。
- 11月「四季」作曲(「花」含む)。歌曲集「四季」を出版。中学唱歌作曲(「荒城の月」「箱根千里」「豊太閤」)
- 1901年(明治34年)
- 1902年(明治35年)
- 7月10日、帰国命令。
- 10月17日、帰国し、東京の大吉宅に着く。
- 11月下旬、大分で静養する。
- 1903年(明治36年)
生涯[編集]
若き天才作曲家[編集]
東京府で生まれる。父は滝吉弘といい、明治23年(1890年)に大分県大分郡長に任じられ、次いで同県直入郡長に転じたため、住居を竹田に移した[5]。
竹田町の高等小学校を卒業後、滝は日頃から音楽が大好きだったので音楽学校への入学を志していた。しかし父親の吉弘は昔気質の性質の人物だったとされてこれに全く理解を示さず許さなかった。ところが従兄で建築技師の滝大吉は廉太郎の良き理解者で、堅物の吉弘を熱心に説得してようやく承諾させ、廉太郎は夢の音楽学校に入学することができた。廉太郎にとって大吉はまさに良き理解者であり、同時に廉太郎が音楽家として後世に名を残すことができたのも彼のお陰だったので兄のように慕って仲良くし、また大吉も廉太郎の良き理解者として面倒をよく見たという[5]。
音楽学校卒業後、明治33年(1900年)に22歳でピアノ及び作曲の研究のため、3年に及ぶドイツ留学を命じられて、大喜びした廉太郎は留学準備にとりかかった。当時、音楽学校が募集していた中学唱歌の作曲に応募したところ、「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の3曲が当選した。「荒城の月」は仙台二高の土井晩翠の作詩で、その歌詩が強く心を打ち、故郷にある岡城(故郷の竹田町の東に岡城があり、ここから遥か南に阿蘇の連山が臨まれていた眺望に恵まれた場所)をしのびつつ、この詩の作曲にあたったといわれている。こうして不朽の名曲といわれる「荒城の月」が22歳の廉太郎によって作曲され、勿論当選の栄誉に輝いている。この栄誉を受ける中で明治34年(1901年)4月に横浜港から出帆し、5月18日にドイツのベルリンに到着した[5][6]。
既にドイツには児童文学者の巌谷小波、バイオリニストの幸田幸らがおり、彼ら彼女らに出迎えられて廉太郎は暖かく過ごし始めた。6月7日にライプチヒに到着し、当地の音楽学校に入学して本格的な勉強に取り組むべく準備に忙殺されるようになった[6]。
天才作曲家の若すぎる死[編集]
準備の最中、11月25日にたまたま同地でオペラの公演があり、廉太郎はそれを観劇した。ところがその帰途、廉太郎は風邪をひいてなかなか治らなかった。むしろ悪化の一途をたどったので、大学病院に赴いて診察を受けると、肺結核と診断されて直ちに入院するように命じられた。その後も病状は好転せずに悪化し、ドイツ駐在の日本公使は本国の日本政府と協議の上、帰国療養させることを決定した[6]。
明治35年(1902年)7月10日、廉太郎は帰国の途につき、7月24日にロンドンに到着。8月29日にロンドンを発って、10月17日に横浜に着いて東京で療養生活を送るようになる。療養の世話にあたったのは廉太郎の良き理解者である従兄の大吉であった。ところがその大吉が11月21日に脳溢血で倒れて、11月23日に急死してしまうという廉太郎にとっては恐らく心理的にも物理的にも大きな打撃を受ける不幸が起こってしまう[6]。
やむなく廉太郎は大分に帰り、両親の下で療養することになった。廉太郎は父母、弟や妹らの手厚い看護を受けるが、ほとんど効果はなく、明治36年(1903年)6月29日に死去した。数えで25歳、満で23歳と10か月ほどという若さであった。死因は肺結核である。法名は直心清廉居士といい、大分市の金池町万寿寺に葬られた。滝家の累代の墓は大分県速水郡日出町の龍泉寺にあったが、父の吉弘が万寿寺の住職・足利紫山と懇意だったので、廉太郎は万寿寺に葬られたのだという。この際に分骨されて龍泉寺にも納められている[6][7]。
人物[編集]
- 滝廉太郎が高等小学校の時の明治26年ころ、父吉弘に、音楽の道に進む希望を打ち明けると、父吉弘は家老の家柄でありながら、当時は婦女子のすることと考えられていた音楽に進むことに反対した。廉太郎の意思は固いため、吉弘は困っていた。廉太郎と懇意だった甥の滝大吉に相談した際、大吉に「人は各々天分を生かすべきだ」と強く忠言を受け、父を説得したため、廉太郎の東京音楽学校(現・東京芸術大学)への進学が許された。
- 「暘谷会」(日出町出身者等で組織)に廉太郎は入会しており、暘谷会が発行する『暘谷雑誌』に、廉太郎のドイツ留学に際して、「4月6日 瀧廉太郎ピアノ研究のためドイツ留学の途に上る。これより先東京日出出身者は萬安亭に於て送別の宴を張り、宇佐美健吉氏(のちに日出町長)壮行の辞を述ぶ」という記事が掲載されている[8]。
- 筑紫哲也の祖母は滝廉太郎の妹(安部トミ)である。
東京音楽学校の教師陣[編集]
滝廉太郎が入学した当時の東京音楽学校の教師陣は次の通り。
- 上原六四郎 (倫理、音楽理論、音楽史、音響学)
- 渡辺龍聖 (倫理、教育学)
- 鳥居忱 (国文学、漢文学)
- 幸田延 (バイオリン、独唱歌、和声学)
- 黒川真頼 (国文学)
- 上真行 (唱歌、和声学)
- 中村秋香 (国文学)
- 小山作之助 (歌唱、歌唱教授法、音楽理論)
- 橘糸重 (洋琴)
- 旗野十一郎 (国文学)
- 遠山甲子 (洋琴)
- 山田源一郎 (歌唱、風琴)
- 島崎赤太郎 (風琴)
洋琴はピアノを指していると思われる。風琴はオルガンである。
滝廉太郎碑[編集]
- 滝廉太郎居住地跡石碑
- 東京都千代田区一番町18-1
- 花の碑
- 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」にちなみ、浅草七丁目一番隅田公園に「武島羽衣先生歌碑建設会」によって昭和31年11月3日建立された。
- 嗚呼天才之音楽家 瀧廉太郎君碑
- 大分の萬壽寺内(大分県大分市金池町5丁目)。音楽学校同窓有志、明治37年8月除幕式[9]。
- 滝廉太郎君碑
- 平成23年、大分県速見郡日出町1856、龍泉寺内。
作品[編集]
なお、滝廉太郎の作品を「瀧 廉太郎(滝 廉太郎)作品全集」と題したサイトで聞くことができる。 「荒城の月」は山田耕筰が編曲した版が広く知られているが、本サイトでは、原曲を聞くことができる。相違点は、「花のえん」の「え」の個所に原曲は#がついており、半音上がっているが、山田耕筰版では#を削除している[10]。
滝廉太郎が登場する作品[編集]
- 映画
- テレビドラマ
- テレビ偉人伝 滝廉太郎(1960年 演:藤川正治)
- ラジオドラマ
- 忘れえぬ人々 滝廉太郎(1952年 演:高島敏郎)
- 荒城の月(1958年 演:石濱朗)
- 演劇
- 日本の騎士(1970年 演:山本学)
- 日本の旋律 荒城の月(1970年 演:舟木一夫)
- 荒城の月(1990年 演:松橋登)
- 花-滝廉太郎物語(1991年 演:清水健太郎、夕鶴みき)
- オペラ 瀧廉太郎(1998年 演:山本裕真)
- ミュージカル 花・滝廉太郎(2002年 演:高嶋政伸)
- 音楽劇 荒城の月〜落日の譜〜《A組公演》(2012年 演:小山陽二郎)
- 音楽劇 荒城の月〜落日の譜〜《B組公演》(2012年 演:大川晶也)
- 春うらら(2012年 演:熊坂正実)
- 絶筆〜LAST MUSIC(2013年 演:鎌田龍)
- コンダーさんの恋 鹿鳴館騒動記(2014年 演:荒井敦史)
- 瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々(2014年 演:鯨井康介)
- 音楽劇 瀧廉太郎物語(2014年 演:石井友樹)
- 瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々(2015年 演:兼崎健太郎)
- 瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々(2016年 演:和田琢磨)
参考文献[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
外部リンク[編集]