勝瑞城

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勝瑞城(しょうずいじょう)とは、現在の徳島県板野郡藍住町勝瑞字東勝地29-2にかつて存在した日本である。

概要[編集]

勝瑞駅の北西およそ500メートルのところ、森に覆われた見性寺の辺りに勝瑞城があったと言われている。

築城年代については不明だが、記録などから恐らく15世紀半ば、つまり室町時代中期ではないかと見られている。吉野川下流に開けた四国でも随一と言われる吉野平野の中心部で、に近いことから京都との交通の便も非常に良く、多くの商人や民家、寺院が集まってここは四国でも賑わいを見せる城下町として繁栄した。阿波国讃岐国淡路国の3か国の政治経済の中心地で、当時の記録では「勝瑞の町に千軒の家並があり、市があった」と書かれている。

室町時代、この阿波を支配して勝瑞城を居城としていたのは、管領細川氏の一族である。室町幕府の第3代征夷大将軍足利義満を補佐した管領として有名な細川頼之は、管領として京都に屋敷を構えて「管領屋形」と称したが、勝瑞城を「阿波屋形」と称している。しかし、阿波細川家では戦国時代に入ると当主の若死が相次いで急速に衰退。これに乗じて家臣の三好氏が権勢を握り、阿波細川家第11代・細川持隆の頃になると家臣の三好実休が権力を握るようになっていた。このため、天文22年(1553年)に持隆は実休を殺そうとしたが、逆に返り討ちにされて殺された。実休は新たな第12代に持隆の子・細川真之を擁立する。

その後、実休は畿内で戦死。跡を継いだのは息子の三好長治であるが、この頃になると織田信長の勢力が畿内にまで及び、三好氏は三好長慶の死去もあって衰退していた。これを見た真之は天正4年(1576年)、勝瑞城を出て仁宇谷に立て籠もり、長治に対して反乱を起こした。この真之と長治の争いは阿波国内を二分する大規模なものとなるが、天正5年(1577年)に長治は遂に敗れて長原において自殺した。しかし三好家の旧臣は真之の配下に入ることを潔しとせず、讃岐国にいた長治の弟である十河存保を勝瑞城に迎えて抵抗。これに対して真之も土佐国長宗我部元親と手を結んで対抗して、争乱は続いた。さらにこれに信長の介入もあったが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が横死すると、その後ろ盾を得ていた十河存保は元親に攻められて中富川の戦いで大敗。これにより、勝瑞城は落城して長宗我部氏の属城となった。真之は三好氏旧臣の反抗を受けて同年に殺されている。

現在、見性寺の周囲にある土塁跡、掘割などがわずかに勝瑞城の面影を残すのみとなっている。城跡は徳島県の史跡に指定されている。

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