角牟礼城
角牟礼城(つのむれじょう)とは、現在の大分県玖珠郡玖珠町森にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
大分県の玖珠町の角埋山を利用して造られた山城である。現在の福岡県側から侵攻してくる場合の敵軍を食い止めるために築城された防衛拠点と見られている。
もともと玖珠は平安時代から要衝のひとつであり、それを示すものとして瀬戸遺跡や帆足城なども発掘で発見されている。14世紀の南北朝時代には玖珠に伐株山城という城が築城されていたことも確認されている。そして15世紀の室町時代中期に当地の国衆である森氏が角牟礼城を築城したという。この城は標高577メートル、比高およそ240メートルというかなりの山城であり、周囲を断崖状の岩が囲んだ要害であった。戦国時代の天正14年(1586年)に島津義久が大友宗麟を攻め滅ぼすために大軍をもって侵攻した際、この城は島津軍によって攻撃されたが、当城はその堅固をもって島津の大軍を遂に撃退した。宗麟の死後、大友氏を継承した大友義統は文禄の役の際に罪あって豊臣秀吉によって改易され、その後の豊後は豊臣氏の家臣が分散して入封したが、当地には文禄3年(1594年)に毛利高政が入った。高政は角牟礼城の改修を行ない、現在に残っている石垣造りの城へと改築した。これは当時の九州においては最先端の城であった。
慶長6年(1601年)に伊予の来島氏(久留島氏)が当地の領主となる。しかし来島氏は山城の麓に陣屋を築き、角牟礼城はこれにより廃城となった。これは関ヶ原の戦いで西軍に属していた来島氏が徳川家康に恭順の意を示すため、あえて廃城にしたと言われている。江戸時代においてはわずかに蔵があっただけだったと言われている。ただ、来島氏は石垣のみは江戸時代を通じて修理を続けており、緊急時にはここにおいて戦えるように整備を続けていたといわれている。