岸和田城
岸和田城(きしわだじょう)とは、大阪府岸和田市岸城町9-1にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
南北朝時代に後醍醐天皇の下で活躍した楠木正成が、建武政権において河内国・摂津国・和泉国の3か国の守護に任命された際、正成が一族の和田高家に築城させたのが起源と言われている。後に正成は湊川の戦いで敗死。これにより足利尊氏による室町幕府が成立すると、山名氏が和泉守護に任命されて信濃泰義が岸和田城主となった。岸和田という場所は畿内の要衝であり、そのため畿内の政変に巻き込まれやすかったので室町幕府の政変が起こるたびにここの城主はよく変わっている。
織田信長が上洛した頃には三好氏の属城だったが、やがて織田氏の支配下にはいり、松浦氏や寺田又右衛門という三好氏の流れを汲む松浦氏の一族の支配下にあったが、やがて信長の一族である織田信張が城主に任命されている。信長の死後は羽柴秀吉の支配下に入り、天正11年(1583年)に秀吉の家臣・中村一氏が城主に任命された。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで紀伊国の雑賀衆が徳川家康についたことから、岸和田は羽柴と雑賀の争いとなり、岸和田城下は焼かれる被害を受けた。しかし小牧・長久手の戦いから戻った秀吉は、天正13年(1585年)に10万の兵力をもって紀伊国を攻め、雑賀衆以下を壊滅させた。そして同年7月、中村一氏は近江国水口城に転封され、代わって秀吉の一族である小出秀政が城主に任命された。秀政は5層の天守閣を築くなど、城の整備に尽力した。
江戸時代には岸和田藩の藩庁となった。なお、秀政が築いた天守閣は文政10年(1827年)の落雷で焼失している。そのため、昭和29年(1954年)になって3層5重の鉄筋コンクリートの天守閣が再建され、昭和44年(1969年)に城門・隅櫓が建設されている。現在、天守閣と隅櫓内部には岸和田市立郷土資料館が存在する。また本丸跡には昭和28年(1953年)造園の石庭「八陣の庭」がある。
現在、城跡には満々と水をたたえた濠、石垣も残されている。
アクセス[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 岸和田城いまむかし/岸和田市公式ホームページ
- 岸和田城
- 全国遺跡報告総覧 奈良文化財研究所
- 正保城絵図(国立公文書館デジタルアーカイブ)和泉国岸和田城図あり
- 岸和田城の観光ガイド - 攻城団
- 岸和田市史年表 岸和田市
- 中世中後期の和泉国大津・府中地域 廣田浩治