中津城

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中津城(なかつじょう)とは、現在の大分県中津市二ノ丁にかつて存在した日本である。現在は城跡が中津公園(なかつこうえん)となっている。

概要[編集]

この城は現在の中津駅の北西およそ1キロ、山国川沿いに存在した平城であった。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の重臣・黒田孝高(官兵衛)は九州征伐の功績により、豊前中津に12万石を与えられて中津城の築城を開始する。この築城は慶長5年(1600年)になっても続けられていたとされ、同年に発生した関ヶ原の戦いで如水(孝高は天正17年(1589年)に剃髪していた)の嫡子長政徳川家康率いる東軍に属したことから、戦後にその功績で筑前福岡藩に加増移封となったため、代わって丹後宮津から細川忠興が中津城に入り、ここに幕藩体制下の中津藩が成立する。

忠興は中津城の竣工と同時に城下町の整備、検地による土地台帳の作成、治水工事などを行なって藩政の基礎固めを行なった。忠興が築いた金谷堤が中津城の南側、山国川沿いの金谷に現存している。しかし忠興は慶長7年(1602年)に居城を小倉城に移した。そして寛永9年(1632年)、忠興の3男・忠利の時代に細川氏肥後熊本藩に移封となる。

その後は徳川氏譜代大名である小笠原氏が入封するが、これも享保2年(1717年)に播磨安志藩に移封となり、奥平氏がその後に入封してようやく城主家は定着し、奥平氏の治世の下で明治維新を迎えた。

この城は本丸、2の丸、3の丸から成り、総面積は7万8000平方メートル、城門は8棟、櫓は22棟でしかも全て平櫓か二重櫓だったという。秀吉を支えた軍師・黒田孝高の縄張りが如何に実戦的だったかを示すものである。だが、明治時代前期にこの城は取り壊しとなり、最終的に明治10年(1877年)の西南戦争で城の大半が焼失してしまった。

昭和39年(1964年)、旧中津藩主・奥平氏の子孫によって5層の天守閣が建てられ、その内部には奥平氏の家宝類が並べられ、最上階は展望台になり、中津の街並みを眼下に見渡せ、遠く耶馬の連山、国東の山々などが一望できる。

現在、城跡は中津公園となり、本丸の石垣や薬研掘などが残されている。公園内には復元した天守閣のほか、奥平氏の先祖である奥平貞能信昌家昌の奥平3代を祀った奥平神社、黒田孝高が謀殺した城井鎮房(宇都宮鎮房)の霊を祭る城井神社、慶応義塾で学んで日本初の洋式歯科を開業した小幡英之助の銅像、中津藩出身の福澤諭吉の「独立自尊の碑」などが存在する。

なお、中津城は西側に山国川が流れており、これがそのまま天然の堀となっていた。そして東、南、北は堀、石垣、土囲、寺町などで防御施設としているが、その平面図が本丸を要にして扇形をしていたことから、この城を扇城(おうぎじょう)とも呼んでいたという。

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