菅谷館
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菅谷館(すがややかた)とは、現在の埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷にかつて存在した居館である。
概要[編集]
武蔵嵐山駅の南西およそ1キロの槻川と都幾川の合流点北側の河岸段丘上に存在した居館である。源頼朝に仕えて源平合戦で大活躍した名将・畠山重忠が築城したと言われる。重忠は頼朝の死後、政権簒奪を目指す北条時政にその武功と人望を警戒されて、元久2年(1205年)に武蔵国二俣川で殺害された。居館はこうしておよそ20年にして廃館となった。
この館はほぼ方形を成しており、面積はおよそ10万7000平方メートル、中央に本丸、その北側に2の丸、3の丸があり、3の丸西側に西の丸を配し、各部を土塁や空堀で固めていた。南は高さ20メートルの断崖で都幾川北岸沿いの低地に臨み、東や西はいずれも浸食谷を利用した堀になっており、西方に鎌倉古道が通じていた。ただ、これだけの規模の城あるいは居館を鎌倉時代初期に建築したとは考えにくく、重忠の時代に築かれたのは本丸のみで、残りは室町時代か後北条氏の時代に拡張されたのではないかと推定されている。
館跡は比較的旧構がよく残されており、3の丸跡は整備されて埼玉県立歴史資料館(現在の埼玉県立嵐山史跡の博物館)が建ち、少し離れた2の丸跡には昭和4年(1929年)に造立された畠山重忠像が鎌倉の方向を向いて建てられている。
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