魚津城

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魚津城(うおづじょう)とは、現在の富山県魚津市本町にかつて存在した日本である。

概要[編集]

この城は現在の魚津駅の南西、大町小学校付近にあった平城である。魚津城以外に小戸城小津城とも呼ばれたと伝わる。

この城は建武の新政が行なわれていた建武2年(1335年)に南朝方の武将であった椎名孫八によって、既に孫八が築城して城主になっていた松倉城支城として築城したのが起源と伝わっている。間もなくこの地域は鎌倉幕府北条氏残党である北条時兼の反乱が発生し、孫八はこの魚津城を拠点にして時兼と戦った。

戦国時代になり、永正年間(1504年 - 1521年)に鈴木国重居城としたが、間もなく越後から長尾為景の侵攻を受け、魚津城は攻略された。天文23年(1554年)に板倉政広が魚津城に入るが、翌弘治元年(1555年)に長尾景虎の侵攻を受けて攻略された。

天正6年(1578年)に上杉謙信が死去すると、後継者の上杉景勝は城を修築して、謙信以来の勇将である吉江宗信を城主に任命する。吉江は謙信の没後に侵攻してきた織田信長の重臣・柴田勝家前田利家佐々成政らが率いる織田軍と戦って勇戦するが、最終的には天正10年(1582年)6月3日に魚津城は落城し、吉江は自害した(魚津城の戦い)。奇しくもこの日は本能寺の変で信長が自害した翌日のことであった。

その後、魚津城は佐々成政が奪還するが、天正13年(1585年)8月、秀吉の大軍に成政は降伏し大坂に留め置かれた。この富山の役の恩賞で前田家に越中三郡(砺波・射水・婦負)が加増された。

文禄4年(1595年)の蒲生騒動で前田利長に残る新川郡も加増され、上杉家の越中衆から郡内の諸城を受け取る。前田氏は魚津城代に青山吉次(佐渡)を入れた。関ヶ原の戦いで東軍についた利長は、旧領61万石余[1]に利政の能登21万石と南加賀の丹羽・山口領を加増、再検地で119万5千石となる(のち富山10万石と大聖寺7万石を分離、加賀藩は102万5千石)。

利長は、慶長15年(1610年)に富山城が火災に遭ったため、一時期魚津城を居城とした。しかし同年の8月に高岡城に居城を移し、元和一国一城令により廃城とされた。廃城後は加賀藩の御蔵「古城御蔵屋敷」として使用された[2]

現在、魚津城の本丸跡は大町小学校の構内となっており、2の丸跡は魚津簡易裁判所になっている。なお、小学校の校庭の一隅にこの城を落とした謙信が詠んだ歌と伝わる「武士(もののふ)の、鎧の袖を、片敷きて、枕に近き、初雁の声」という歌碑が建立されている。

アクセス[編集]

脚注[編集]

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  1. 関ヶ原前の前田家合計の総石高は83万石余(能登にある長氏の分を含む)
  2. 『とやま文化財百選シリーズ(5) とやまのお城』(2009年3月、富山県教育委員会 生涯学習・文化財室発行)16ページ。

外部リンク[編集]