徳川四天王

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徳川四天王(とくがわしてんのう)とは、徳川家康家臣としてその覇業を支えて多くの武功を立てた4人の戦国武将のことである。

四天王[編集]

概要[編集]

この4名は譜代の家臣で、徳川家康の下で特に武功を立てて、その覇業に貢献した。4名のうち、酒井忠次は他の3名と親子ほど年齢が離れており、そのため家康が豊臣秀吉に臣従した際の天正16年(1588年)に家督を嫡子の家次に譲って隠居している。そのため、それ以後は四天王ではなく、徳川三傑(とくがわさんけつ)と呼ばれることが多い。

この3名は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いまで活躍して江戸幕府の創設に大いに貢献したが、その関ヶ原で戦傷を負った井伊直政は慶長7年(1602年)に死去。榊原康政はその5年後、そして本多忠勝が慶長15年(1610年)に死去し、三傑は家康より全員若くして死去している。

四天王のうち、井伊氏江戸時代を通じて近江国彦根藩を支配し、歴代当主は大老に就任して幕府を大いに支えているが、残りの3人の家系は無嗣断絶や御家騒動などが相次いで明治維新まで存続はしているが、江戸時代を通じて活躍することはほとんど無かった。

関連作品[編集]

小説