高崎城
高崎城(たかさきじょう)とは、現在の群馬県高崎市高松町にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
高崎市街の西、鳥川左岸沿いにかつて存在した平山城である。この城は和田合戦で北条義時に滅ぼされた侍所所司の和田義盛の一族・和田信正が鎌倉時代初期に築城した。
戦国時代の頃の城主である和田業繁は永禄4年(1561年)に長尾景虎に従って北条氏康・氏政父子が立て籠もる小田原城攻めに参加する。しかし小田原城は落とせず、戦後に上杉政虎に対して反乱を起こして上州箕輪城を攻めた。このため政虎は和田城に対して軍勢を送るが落とすことができず、政虎は厩橋城に撤退した。永禄5年(1562年)9月、再度上杉軍は和田城を攻めるが、落とすことができずに撤退している。その後、和田業繁は武田信玄の家臣となり、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗した際に戦死した。
その跡は和田信繁が継承し、彼は北条氏政に属したが天正18年(1590年)の小田原征伐の際には後北条氏に属して小田原城に入り、自らの城は和田兼業や柴田弥次郎らに守らせていたが、4月19日に前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの東山道方面軍に攻められて落城した。こうして和田氏は没落した。
小田原征伐後、後北条氏に代わって関東の太守となった徳川家康は、重臣で徳川四天王のひとりである井伊直政に12万石を与えて箕輪城に入れたが、家康は中山道の要である和田宿を重視して直政に和田城を改修させた。慶長2年(1597年)に直政は和田城の大幅な改修を開始し、翌年までにほぼ完成させると居城を箕輪城から和田城に移し、その際に城下町も大幅に整備して地名を和田から高崎に改名した。現在の高崎城の遺構は井伊直政の大改修によるものである。
高崎城は以後、明治維新まで高崎藩の城として存続し、明治維新後に破却された。現在は周辺に近代的なビルが建ち並んでおり、水掘や土塁上に茂る老樹が高崎の面影をわずかに伝えているのみである。
アクセス[編集]
- 高崎駅西口から徒歩で15分。