河上丈太郎

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河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、明治22年(1889年1月3日 - 昭和40年(1965年12月3日)は、日本政治家右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄

来歴[編集]

東京市芝区西久保巴町(現在の東京都港区虎ノ門)出身。父は材木商の河上新太郎、母は河上かねで長男。

芝巴絵小学校時代から『聖書』を読み、20歳の時に受洗した。立教中学時代に「万朝報」を愛読する。明治41年(1908年)、第一高等学校に入学し、弁論部で活躍した。明治44年(1911年)の大逆事件で、徳富蘆花の講演である「謀反論」を依頼したことで知られる。

大正4年(1915年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、立教大学や明治学院の講師に就任する。大正7年(1918年)、関西学院教授として赴任。大正8年(1919年)に平岩末子と結婚する。大正11年(1922年)に大阪労働学校に、大正12年(1923年)に神戸労働学校設立と共に講師となる。大正13年(1924年)に政治研究会結成に参加し、神戸支部長となり、大正14年(1925年)に学連事件家宅捜索を受けている。

昭和2年(1927年)、弁護士を開業し、日本労農党に入党した。さらにクリスチャンとして中間派社会民主主義を唱えた。昭和3年(1928年)、第1回普通選挙が行われて当選する。以後、公職追放の期間を除いて当選10回、終生にわたって議員を務めている。

昭和15年(1940年)に麻生久が死去すると、同志の中心的な存在にのし上がって大政翼賛会総務に就任する。翼賛選挙では推薦議員になった。戦後の昭和20年(1945年11月に日本社会党の結成に参加し、顧問となる。しかし、戦前の翼賛選挙で推薦議員になった経緯などから、昭和21年(1946年)に公職追放に処された。昭和26年(1951年)に追放解除となり、昭和27年(1952年)に右派社会党委員長に就任する。以後、両社統一に尽力するが、昭和30年(1955年)に社会党統一結成の際には委員長の座は鈴木茂三郎が推され、河上は顧問となった。昭和35年(1960年)、社会党から民主社会党が分裂した際には社会党に留まり、同年の浅沼稲次郎暗殺に伴い、昭和36年(1961年)に委員長となり、5選される。

昭和40年(1965年)1月くも膜下出血により病床につき、12月3日に亡くなった。76歳没。墓所は東京都秋川市西多磨霊園にある。