武藤光朗
武藤 光朗(むとう みつろう、1914年3月17日 - 1998年7月25日)は、哲学者[1]、社会思想家、評論家[2]。元民主社会主義研究会議(民社研)議長。
経歴[編集]
福島県伊達郡川俣町生まれ。長崎県長崎市出身[2]。幼少期に両親を失い、長崎の長兄のもとで育つ。長崎高等商業学校時代に左右田喜一郎の経済哲学に触れ[3]、1934年東京商科大学(現・一橋大学)に入学。左右田哲学の継承者である杉村広蔵のゼミナールに所属。マックス・ウェーバーやカール・ヤスパースと出会う[4]。1937年東京商科大学卒業。1940年横浜専門学校(現・神奈川大学)教授[5]。1944年日本外政協会調査課長[4][6]。日本国際連合協会調査課長を経て[5]、1948年國學院大學政経学部教授[4][5]。のち中央大学経済学部教授となるが[7]、全共闘運動の時期に教授会のふがいなさに呆れて辞職[8]。その後、早稲田大学客員教授を務め、1984年3月定年退職[9]。
1998年7月25日、虚血性心不全のため自宅で死去、享年84歳[3]。鎌倉女子大学学長の福井一光と交流があったことから、没後、蔵書は遺族によって同大学に寄贈され、同大学図書館に「武藤光朗文庫」が開設された[1]。
人物[編集]
カール・ヤスパースの研究者として知られた[10]。1951年に鈴木三郎、草薙正夫とともに日本ヤスパース協会を創立し、1984年に再発足した同協会で理事と顧問を務めた[3]。社会思想家・評論家としても活躍した。実存哲学の立場から民主社会主義論を展開し、旧民社党・同盟関係者や学生、若者に一定の影響力を持った[10]。1991年のソ連・東欧体制崩壊後は「友愛」に注目し、「友愛民主主義」を提唱した。晩年は自らを「社会思想家」と称した[11]。
民主社会主義を中心とする社会・政治活動に積極的に参加した[3]。1951年に結成された民主社会主義連盟(民社連)の理事を務め、中心メンバーの1人として活動。1959年11月に民主社会主義新党準備会に綱領規約起草委員会が設けられ、猪木正道、木村健康、関嘉彦、土屋清、林健太郎、蠟山政道、和田耕作とともに諮問委員に委嘱[12][13]。1960年2月に蠟山政道、猪木正道、関嘉彦、中村菊男らと民主社会主義研究会議(民社研)を結成し、理事に就任[1][4]。民社研の機関誌『民主社会主義』初代編集担当理事に就任[4]。1961年4月民社党内に綱領審議委員会が設けられ、大島康正、猪木正道、木下和夫、関嘉彦、中村菊男、野田福雄、和田耕作とともに諮問委員に委嘱[14]。1962年社会主義インターナショナルのオスロ大会に民社党代表の1人として出席[4]。1963年民社研の「北欧福祉国家研究視察団」の団長として内海洋一、岡野加穂留、久保まち子、丸尾直美、山田文雄、吉田忠雄、渡辺朗とともにスウェーデン、ノルウェー、デンマークを訪問[15]。1966年1月から1970年3月まで民社研第2代議長。1981年4月から1983年1月までインドシナ難民共済委員会初代委員長[16]。1983年1月から1993年5月までインドシナ難民連帯委員会初代会長[17][18]。1994年政策研究フォーラム顧問[19]。
著書に『経済学史の哲学』(1969年)、『経済倫理の実存的限界』(1971年)、『革命思想と実存哲学』(1973年)の経済哲学三部作、『社会主義と実存哲学』(1958年)、『現代日本の挫折と超越――友愛哲学の研究』(1993年)、訳書にヤスパースの主著『哲学』の第1巻『哲学的世界定位』がある。
社会的活動等[編集]
- 社会思想研究会理事(1960年4月~)[20]
- 雑誌『自由』編集委員会編集委員[21]
- 日本文化会議発起人、理事(1968年6月~)[22]
- 社団法人日本文化フォーラム理事(1969年2月~)[23]
- 安保改定・民主主義を守る会監事(1969年7月~)[24]
- 自由言論委員会委員長[25]
- 言論人懇話会同人[26]
- 新しい国鉄をめざす国民会議理事(1976年3月~)[27]、議長[28]
- 共産圏の自由抑圧を告発する日本人権委員会(略称:自由人権委員会)委員長(1977年9月~)[29]
- 日本を守る国民会議呼びかけ人(1981年10月~)[30]
- 海と国土の平和と安全を守る自衛隊法改正促進連絡会議呼びかけ人(1982年7月~)[31]
- 東電学園講師[32]
著書[編集]
単著[編集]
- 『經濟的民主々義とは何か』(萬里閣[新國民文庫]、1946年)
- 『經濟哲学――資本主義の限界の問題』(夏目書店、1947年/春秋社、1950年)
- 『アメリカ資本主義の倫理』(社會評論社[世界政治經濟叢書]、1947年)
- 『アメリカ經濟の基本動向』(富士出版、1947年)
- 『マックス・ウェーバー――その生涯と思想』(夏目書店[経済思想家選書]、1948年)
- 『マルクス主義と實存哲學』(春秋社[春秋選書]、1948年)
- 『マックス・ウェーバーの人間像』(春秋社[春秋選書]、1949年)
- 『社會科學におけるプロレタリアと實存――マルクスとウェーバー』(理想社[理想叢書]、1950年)
- 『社会主義的自由への道――實存哲學的探求』(創元社、1952年)
- 『アメリカ資本主義の精神』(小峰書店、1953年)
- 『経済倫理―経済学と世界観』(春秋社[現代経済学全集]、1955年)
- 『現代日本の精神状況』(創文社、1956年)
- 『社会主義と実存哲学』(創文社、1958年)
- 『現代日本の革命と反抗』(創文社、1962年)
- 『現代日本における民主主義の定着条件』(民主主義研究会編、民主主義研究会、1963年)
- 『現代資本主義の変容』(民主社会主義研究会議[学習ライブラリー]、1964年)
- 『経済学史の哲学』(創文社[経済哲学Ⅰ]、1969年)
- 『これからの労使関係――福祉と参加への道』(日本生産性本部生産性労働資料センター[生産性労働文庫]、1970年)
- 『改革の思想――現代日本と民主社会主義』(民主社会主義研究会議[学習ライブラリー]、1971年)
- 『経済倫理の実存的限界』(創文社[経済哲学Ⅱ]、1971年)
- 『革命思想と実存哲学』(創文社[経済哲学Ⅲ]、1973年)
- 『限界状況としての日本』(創文社、1975年)
- 『自由人権の運命――哲学的時論集』(創文社、1979年)
- 『例外者の社会思想――ヤスパース哲学への同時代的共感』(創文社、1983年)
- 『現代日本の挫折と超越――友愛哲学の研究』(創文社、1993年)
共著[編集]
- 『アメリカ民主主義の諸相』(松下正壽、京口元吉、杉木喬共著、日本外政協會、1946年)
- 『社會主義の哲學――近代社會の平等化の倫理』(杉村廣蔵共著、夏目書店、1947年)
- 『知識人と狂信』(竹山道雄共著、自由社[自由選書]、1970年)
- 『変革期のなかの自由』(田中美知太郎、竹山道雄、西尾幹二、R.アロン、D.ベル、猪木正道、Z.ブルゼジンスキー、M.クローン、P.アスネール、P.ワイルズ、A.アマルリク、林健太郎共著、自由社[自由選書]、1971年)
- 『講座情報社会科学 17 情報文明の展望』(樋口謹一、北川敏男共著、学習研究社、1974年)
編著[編集]
- 『日本経済の現状と課題 第5集 日本福祉国家の条件』(加藤寛共編、春秋社、1963年)
- 『福祉国家論――北欧三国を巡って』(編、社会思想社[社会思想選書]、1965年)
- 『防衛問題の考え方――何を何から守るか』(編著、民主社会主義研究会議[学習ライブラリー]、1969年)
- 『民主連合政権――その歴史の証言』(入江通雅共編、永田書房、1973年)
- 『左翼全体主義――その理論と実態』(編、民主社会主義研究会議[民社研叢書]、1974年)
訳書[編集]
- カール・ヤスパース『哲学 第1巻 世界(上・下)』(創元社、1953年)
- T.W.ハチスン『近代経済学説史(上・下)』(長守善、山田雄三共訳、東洋経済新報社、1957年)
- カール・ヤスパース『哲学 第1 哲学的世界定位』(創文社、1964年)
- カール・ヤスパース[著]、ハンス・ザーナー編『根源的に問う――哲学対話集』(赤羽竜夫共訳、読売新聞社[読売選書]、1970年)
出典[編集]
- ↑ a b c 個人文庫 鎌倉女子大学図書館
- ↑ a b 武藤 光朗(ムトウ ミツロウ)とは コトバンク
- ↑ a b c d 中山剛史「追悼 武藤光朗先生」『コムニカチオン』第10巻、日本ヤスパース協会、1999年、106-108頁
- ↑ a b c d e f 「惜別 武藤光朗先生」『改革者』第39巻第11号(通巻460号)、1998年11月
- ↑ a b c 『ソビエト連邦――思想・政治・経済・外交』日本国際連合協会京都本部、1959年
- ↑ 武藤光朗「松下正寿先生について」『改革者』第98号、1968年5月
- ↑ 菊盛英夫編『中大生活 1953年版』現代思潮社、1953年、93頁
- ↑ 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(6)反乱の季節(4/5ページ) 産経ニュース、2015年11月15日
- ↑ 武藤光朗「著者から一言」『かくしん』第164号、1984年4月
- ↑ a b 民社党、民社研、社会思想家・武藤光朗、その逝去から10年! 友愛労働歴史館の解説員便り、2008年9月22日
- ↑ 社会思想家・武藤光朗の3つのメッセージ(没後20年)! 友愛労働歴史館、2018年7月26日
- ↑ 佐藤寛行「政党綱領物語(4)民社党篇(上)再び分裂、民主社会党結成へ」『改革者』第188号、1975年11月
- ↑ 朝日新聞社編『朝日年鑑 1960年版』朝日新聞社、1960年、196頁
- ↑ 佐藤寛行「政党綱領物語(5)民社党篇(中)"最小限の自衛措置"が論議の的」『改革者』第189号、1975年12月
- ↑ 武藤光朗編『福祉国家論――北欧三国を巡って』社会思想社、1965年
- ↑ インドシナ難民共済委員会のスタート アジア連帯委員会
- ↑ インドシナ難民連帯委員会の発足 アジア連帯委員会
- ↑ アジア連帯委員会(CSA) - 連帯の30年 アジア連帯委員会
- ↑ 『改革者』第35巻第2・3号(通巻406・407号)、1994年6月
- ↑ 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年
- ↑ 「〈資料と解説〉「体制派文化人」の組織と人脈」『月刊社会党』第235号、1976年7月
- ↑ 国民政治年鑑編集委員会編『国民政治年鑑 1969年版』日本社会党機関紙局、1969年、854-855頁
- ↑ 国民政治年鑑編集委員会編『国民政治年鑑 1970年版』日本社会党機関紙局、1970年、936-937頁
- ↑ 「資料 安保改定・民主主義を守る会 七・二三アピール」『同盟』第133号、1969年8月
- ↑ 「「言論の自由」問題に関する声明」『経済往来』第24巻第6号、1972年6月
- ↑ 『改革者』第180号、1975年3月
- ↑ 窪田哲夫「投稿「新しい国鉄をめざす国民会議」を励まそう」『革新』58号、1975年5月
- ↑ 中村建治『マルクス主義を斬る――時代錯誤的教条主義の根源を衝く』日新報道、1979年
- ↑ 「自由人権委員会が発足」『改革者』第18巻第8号(通巻212号)、1977年11月
- ↑ 佐藤達也「蠢き始めた"草の根"改憲運動――「日本を守る国民会議」の改憲戦略と戦術(調査レポート)」『現代の眼』1982年5月号
- ↑ 茶本繁正「改憲へ突っ走る"四つの車輪"」『月刊社会党』第317号、1982年11月
- ↑ 実存思想論集Ⅰ哲学の根源 創文社