迫間真治郎

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迫間 真治郎(はざま しんじろう、1911年4月16日[1] - 1965年12月23日)は、経済学者。日本大学経済学部教授。

経歴[編集]

和歌山県出身。旧制第一高等学校時代に社会主義運動に参加し、同校を中退。その後、法政大学経済学部に入り、1936年卒業[2]。1938年以降法政大学講師、助教授、教授[1]。1953年日本大学経済学部教授[3]國學院大學政経学部兼任教授[1]。1960年「社会主義経済の理論」で経済学博士(日本大学)[4]

1965年12月23日、心臓麻痺のため日本大学駿河台病院で急逝、54歳。全日本労働総同盟(同盟)の機関誌『同盟』に1965年9月号(第85号)から「マルクス経済学批判」を連載中だった[5]

人物[編集]

計画経済を中心とする社会主義経済理論を研究しつつ、民主社会主義・民主的労働運動の啓蒙・普及活動に従事した。西欧先進諸国が「混合経済」「福祉国家」の段階に入るとアメリカ経済の具体的研究にも取り組み、経済同友会内の「社会中間層研究会」の責任者を務めた[2]

敗戦直後、清水幾太郎が主宰する二十世紀研究所の副所長を務めた[6]。また戦後、荒畑寒村らと文化自由会議に参加した[7]民主社会主義連盟(民社連)理事[8]。1956年に日本労働者教育協会(日労教)が発足すると、チューター養成講座で「思想」の科目の講師を務めた[5][9]。1962年民主社会主義研究会議(民社研)理事[10]

学者・評論家の集まりである「二日会」の主要メンバーとして、加田哲二の亡き後、同会の運営にあたった[6]猪野健治によると、「二日会」は田中清玄のブレーンと伝えられているグループで、メンバーは迫間、加田の他、福田恆存大島康正平林たい子松下正寿村松剛らがいた。メンバーの大半は1963年に発足した麻薬追放国土浄化同盟紀平行雄事務局長)に加盟し田岡一雄山口組組長とともに麻薬追放を呼びかけた[11]

妻は哲学者の三木清の妹[6]。三木清の義弟にあたる[7]高円寺の三木の旧宅に住んでいた[6]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『社会主義計画経済理論』(河出書房[社会主義経済学]、1947年)
  • 『社会主義経済の理論』(日本評論社、1948年)
  • 『経済学』(中央経済社[公認会計士第二次試験精選講座]、1956年)
  • 『精選経済学』(中央経済社、1957年)
  • 『経済学概論』(中央経済社、1958年)

共著[編集]

  • 『経済学いかに学ぶべきか(基礎理論篇・特殊問題篇)』(岸本誠二郎共著、東西出版社、1949年)

編著[編集]

  • 『経済学いかに学ぶべきか(基礎理論篇・特殊問題篇)』(岸本誠二郎共編、東洋書館、1953年)

訳書[編集]

  • カール・マルクス『賃労働と資本』(社会書房、1947年)
  • F. A. ハイエク編著『集産主義計画経済の理論――社会主義の可能性に関する批判的研究』(実業之日本社、1950年)
  • W・S・ウォイチンスキー、E・S・ウォイチンスキー『世界の経済――人口・資源・産業』(直井武夫、細野重雄共訳、日本経済新聞社、1956年)

出典[編集]

  1. a b c 迫間真治郎『精選経済学』中央経済社、1957年
  2. a b 高須裕三「迫間眞治郎博士――その人格と学問と」『改革者』第71号、1966年2月
  3. 『産経日本紳士年鑑 第4版』産経新聞年鑑局、1963年、は10頁
  4. CiNii 博士論文
  5. a b 「謹告」『同盟』第91号、1966年2月
  6. a b c d 中村菊男「迫間真治郎先生の急死」『改革者』第71号、1966年2月
  7. a b 『労働人事名鑑 昭和33年版』社会労働協会、1958年、1113頁
  8. 中村勝範「中村菊男・人と思想(十五)」『改革者』第20巻第4号(通巻232号)、1979年7月
  9. 脇田由郎「教宣人生雑記-12-」『同盟』第249号、1979年4月
  10. 遠藤欣之助「民社研に期待するもの――音田会員の誤解を正す」『社会思想研究』第14巻第3号、1962年3月
  11. 猪野健治『ゼンガクレン――革命に賭ける青春』双葉社、1968年、159頁