田中良一
田中 良一(たなか よしかず、1924年1月30日[1] - 2019年?[2])は、労働運動家。全日本労働総同盟(同盟)最後の書記長。
経歴[編集]
大阪府生まれ。1941年大阪市立扇町商業学校卒。武田長兵衛商店(1943年武田薬品工業)に入社。1945年陸軍予備士官学校卒[1]。1949年武田薬品工業労組中央執行委員。1953年同労組副委員長、全国化学一般労働組合同盟(全化同盟)中央執行委員。1959年日本労働組合総同盟(総同盟)大阪府連副会長。1962年総同盟中央執行委員。1965年武田薬品工業労組委員長。1966年全化同盟会長。1970年全日本労働総同盟(同盟)副会長。1980年同盟書記長[3]、労働戦線統一準備会幹事[4]。1987年全日本民間労働組合連合会(民間連合)初代副会長[5]。友愛会議副議長[6]。1989年日本労働組合総連合会(連合)初代副会長[7]。
1978年から3期9年にわたって国際労働機関(ILO)の労働側理事を務めた[8]。1982年6月の第68回総会で日本人初の副議長を務め、「サムライ」[9]、「ミスターサムライ」と呼ばれた[3]。OECD労働組合諮問委員会(OECD-TVAC)副会長[3]、日本生産性本部理事[1]、民主社会主義研究会議(民社研)理事[10]、政策研究フォーラム顧問も務めた[11]。
1980年8月にポーランドの政府と労働者の間で政労合意書が署名された後、同年9~10月にワルシャワを訪問した[12]。元「連帯」マゾフシェ地区国際局次長の梅田芳穂は、「「連帯」30 周年を迎えるにあたり、特に総評議長・槇枝元文氏、同盟委員長・宇佐美忠信氏、中立労連の竪山利文氏、新産別の水戸信人〔ママ〕氏、総評事務局長・富塚三夫氏、同盟の田中良一氏、その他産別労働組合を指導した活動家諸氏、そして先にその名前を挙げた、当時の全国電気通信労働組合委員長、後の「連合」委員長・山岸章氏に敬意を表すべきである」と述べている[12]。
著書[編集]
- 『サムライ議長のジュネーブ日記――ILO理事の9年間』(読売新聞社、1988年)
出典[編集]
- ↑ a b c 平凡社教育産業センター編『現代人名情報事典』平凡社、1987年、935頁
- ↑ 梅澤昇平「連合30年、やるべきこと、やらなくていいこと」国家基本問題研究所(2019年12月3日)
- ↑ a b c 高木郁朗監修、教育文化協会編『日本労働運動史事典』明石書店、2015年、231-232頁
- ↑ 全民労協編『全民労協運動史』全民労協運動史刊行委員会、1992年
- ↑ 『日本労働年鑑 第58集 1988年版』(PDF) 法政大学大原社会問題研究所
- ↑ 『日本労働年鑑 第58集 1988年版』(PDF) 法政大学大原社会問題研究所
- ↑ 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 第60集 1990年版』労働旬報社、1990年
- ↑ 大阪社会労働運動史編集委員会編『大阪社会労働運動史 第8巻』大阪社会運動協会、発売:有斐閣、1999年
- ↑ 『日本労働年鑑 第54集 1984年版』(PDF) 法政大学大原社会問題研究所
- ↑ 『改革者』第24巻第4号(445号)、1983年7月
- ↑ 役員体制(2011・12年度) 政策研究フォーラム
- ↑ a b 梅田芳穂「日本の「連帯」(PDF)」Forum Poland