和田耕作

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和田 耕作(わだ こうさく、1907年1月18日 - 2006年7月4日)は、政治家。民社党衆議院議員(連続6期)。

経歴[編集]

高知県生まれ。旧制高知高等学校を経て[1]、1927年京都帝国大学経済学部に入学。社会科学研究会に入会し、左翼運動に参加。1928年「三・一五事件」における京大社研への弾圧に連座したが、不起訴処分となり[2]、10日程で釈放[3]。その後、社研の再建活動や河上肇教授追放反対闘争をはじめとした合法運動に従事し[2]、しばしば検挙された[3]。1930年京都帝国大学経済学部卒業[2]宇都宮徳馬の紹介で武装共産党壊滅後の共産党再建運動に従事[3]。同年に電車顛覆犯隠匿容疑で検挙されたが[2]、幹部候補生として入隊が決まっていたため起訴猶予となり、1931年松山歩兵第二二聯隊に入隊。「心の奥底にある民族的なもの、国家的なものへのめざめ」が心を揺さぶり、同年12月の除隊前には「共産主義の実践活動をやめることを決心していた」と後年に述べている[3]

1932年[2]京都市役所社会課に臨時雇い(のち嘱託)として勤務[3]本庄栄治郎京大教授の紹介[3]で1934年5月満鉄経済調査会(のち産業部)に嘱託として入社[2]。1935年4月正社員となり大連に勤務。1937年6月企画庁(同年10月より企画院)副調査官[2]。企画院には勝間田清一稲葉秀三正木千冬佐多忠隆らかつての左翼仲間がいた。日中戦争が勃発すると高知歩兵第四四聯隊に入隊したが、知人の医者のおかげで即日帰郷[3]池田純久陸軍大佐(統制派の理論的指導者)に請われ[3]、1938年10月財団法人東亜研究所第三部支那経済班主事[2]。この間、1937年秋に昭和研究会に入会し[1]尾崎秀実を中心とした支那問題研究会に参加[4]。1939年に支那問題研究会が改組された東亜政治研究会、新設された東亜経済ブロック研究会、経済情勢研究会の委員[5]昭和塾の講師を務めた[6]佐々弘雄とともに防共協定および南進論に反対の立場をとり、満鉄からの資金で「東亜クラブ」をつくって軍人に反対意見を説いたこともあった[7]。1940年近衛文麿内閣の富田健治書記官長を中心とした朝食会に昭和研究会の連絡係として出席。1940年10月大政翼賛会組織局庶務班長(局長補佐)[3]。1941年4月企画院事件に連座して検挙。1942年2月獄中招集され、起訴猶予となり、松江歩兵第六三聯隊に入隊。フィリピンに派遣され、バターン半島攻略戦に従事[8]。1943年4月満鉄調査部事件に連座して検挙され、満洲に送還。奉天監獄収監中の1944年1月に発疹チフスに罹患して伝染病院に入院し、退院後の1944年3月に保釈[2][8]。病状回復後に新京(敗戦後に長春に改称)に移り、日満木工株式会社に勤務[2]。1945年5月の最終審で執行猶予付き禁固3年の判決を受けた[2][8]

敗戦後に長春にソ連軍が進駐し、同軍隊による暴行や略奪、難民の流入、飢えや病気による死亡者の続出という状況の中、満鉄調査部事件に連座した三輪武野間清とともにソ連軍との接触を試みる。満洲国通信社菅沼不二男を通じて同通信社の監督官であるソ連軍大尉と会談。監督官の仲介でバルビル少佐と面談。バルビル少佐の紹介で野坂参三と思われる日本人中佐と会談。日本人中佐の指示でソ連軍公務員となり、日本人向けの新聞『新京ニュース』の刊行や難民救済に従事。和田らの満鉄グループ、大塚有章三村亮一山田清三郎らの満映グループ、淡徳三郎らの満洲国外交部共和会のグループ、進藤甚四郎らの興農合作社グループが大同団結して「在長春日本人民主主義者同盟」を結成。1945年11月2日に延安の「日本人解放連盟」の人々との連絡のため、進藤とともに瀋陽に派遣され、中国共産党の対日本人責任者・外事部長の李初梨と会談。「日本人解放連盟」の人々が瀋陽に到着していないため彼らとの連絡は果たせず、11月10日に長春に戻った。1945年11月19日に三輪とともにソ連軍に検束され、スパイ容疑で取り調べを受け、12月13日にはシベリア送りが確定した[2]。ソ連軍による拘束で共産主義とは決定的に決別[9]。淡、山田、三輪とともに中央アジアアルマ・アタの強制収容所で抑留生活を送り[2]、『日本新聞』の「友の会」の講師、民主グループの専任講師を務めた。1949年10月に帰還が決定し[9]、12月に帰国[1]

1950年5月日本フェビアン研究所初代事務局長[10]。1951年に結成された民主社会主義連盟(民社連)に参加して理事を務め、1955年の社会党左右両派統一に際し、民社連の関嘉彦中村菊男河上民雄蠟山政道藤牧新平らと「統一社会党綱領草案」(右社綱領草案)を作成[11]。1959年1月日本フェビアン研究所主催の「社会主義政策研究会」(平和経済計画会議の前身)を設立、理事[12][13]。1959年11月に民主社会主義新党準備会に綱領規約起草委員会が設けられ、猪木正道木村健康、関嘉彦、土屋清林健太郎武藤光朗、蠟山政道とともに諮問委員に委嘱[14][15]。1960年1月民主社会党(民社党)の結成に参加[1]。1960年2月に蠟山政道、猪木正道、関嘉彦、土屋清、中村菊男、武藤光朗らと民主社会主義研究会議(民社研)を結成し、理事・事務局長に就任。1967年4月まで民社研事務局長を務めた。1960年5月憲法擁護新国民会議(新護憲)顧問[16]。1961年4月民社党内に綱領審議委員会が設けられ、大島康正、猪木正道、木下和夫、関嘉彦、中村菊男、野田福雄、武藤光朗とともに諮問委員に委嘱[17]。1965年7月の第7回参議院議員通常選挙の東京都選挙区に民社党公認で立候補したが落選。1967年1月の第31回衆議院議員総選挙の東京都第4区に民社党公認で立候補して初当選し、1980年6月の第36回総選挙まで連続6期当選。1983年11月政界引退、民社党顧問[1]。民社研顧問[18]、新護憲議長も務めた[19]

著書[編集]

  • 『構造改革論の問題点』(東京政治研究所編、社会思潮社、1961年)
  • 『私の昭和史』(新世紀出版社、1964年)
  • 『ありのままの国会討論――読んで下さい私の政治論 和田耕作質問選集』(和田民主政治研究会、1976年)
  • 『激流に生きる』(和田民主政治研究所、1984年)
  • 『歴史の中の帝国日本――大東亜戦争は避けられなかった』(力富書房、1991年)
  • 『大戦争の表と裏――潜り抜けた幸運な男の記録』(富士社会教育センター、2000年)
  • 『和田耕作(元衆議院議員)オーラルヒストリー』(述、近代日本史料研究会編、近代日本史料研究会、2006年)

訳書[編集]

  • F.W.ベイトソン『社会主義とイギリス農業』(日本フェビアン研究所[英国フェビアン協会叢書]、1952年)
  • G.D.H.コール『フェビアン協会――その過去と現在』(日本フェビアン研究所[英国フェビアン協会叢書]、1953年)
  • G.D.H.コール『労働者――その新しい地位と役割』(紀伊國屋書店、1957年)

出典[編集]

  1. a b c d e 和田耕作関係文書|憲政資料(憲政資料室) リサーチ・ナビ
  2. a b c d e f g h i j k l m 飯塚靖「戦後中国東北における左翼日本人の動向―長春・瀋陽を中心に―」『下関市立大学論集』第65巻第2号、2021年12月
  3. a b c d e f g h i 伊藤隆『〈日本の近代 16〉日本の内と外』中央公論新社、2001年、374-378頁
  4. 昭和同人会編著『昭和研究会』経済往来社、1968年、118頁
  5. 昭和同人会編著『昭和研究会』経済往来社、1968年、名簿37-39頁
  6. 昭和同人会編著『昭和研究会』経済往来社、1968年、133頁
  7. 昭和同人会編著『昭和研究会』経済往来社、1968年、126-127頁
  8. a b c 伊藤隆『〈日本の近代 16〉日本の内と外』中央公論新社、2001年、378-381頁
  9. a b 伊藤隆『〈日本の近代 16〉日本の内と外』中央公論新社、2001年、381-385頁
  10. 有沢広巳「フェビアン研究所の業績の概要」『フェビアン研究』第20巻第3号、1969年3月
  11. 小山弘健清水慎三編著『日本社会党史』芳賀書店、1965年、149頁
  12. 和田耕作「「社会主義経済政策研究会」の発足について」『フェビアン研究』第10巻第1号、1950年1月
  13. 和田耕作「エルベ河を眺めて」『革新』第137号、1981年12月
  14. 佐藤寛行「政党綱領物語(4)民社党篇(上)再び分裂、民主社会党結成へ」『改革者』第188号、1975年11月
  15. 朝日新聞社編『朝日年鑑 1960年版』朝日新聞社、1960年、196頁
  16. 国民政治年鑑編集委員会編『国民政治年鑑 1962年版』日本社会党機関紙局、1962年、129頁
  17. 佐藤寛行「政党綱領物語(5)民社党篇(中)"最小限の自衛措置"が論議の的」『改革者』第189号、1975年12月
  18. 『改革者』第25巻第2巻(通巻289号)、1984年5月
  19. 『Kakushin』第233号、1990年1月