自由 (雑誌)

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自由』(じゆう)は、自由社が1959年から2009年に刊行していた月刊の総合雑誌。

概要[編集]

日本文化フォーラム」を母体として創刊された総合雑誌。1959年12月の創刊号から1960年9月の第10号は至誠堂が刊行し、1960年10月の第11号から最終号となった2009年2月の51巻2号(通巻588号)は自由社が刊行した。『世界』をはじめとする容共的な風潮に対抗することを創刊の動機とし、進歩的知識人に反対する「リベラリスト」に誌面を提供した[1]関嘉彦によると、創刊時の編集委員長は竹山道雄、編集委員は木村健康平林たい子林健太郎武藤光朗、関嘉彦で、後に福田恆存西尾幹二らが加わった[1]。林健太郎によると、創刊時の編集委員長は竹山道雄、編集委員は平林たい子、木村健康、関嘉彦、林健太郎の4人で、後に福田恆存、武藤光朗が加わった[2]大阪屋東京支店発行の『本の本』第187号(1959年10月)の「雑誌ニュース」によると、編集委員は竹山道雄、木村健康、平林たい子、河北倫明別宮貞雄。70年代にパリに本部を置く「文化自由会議」からの援助の打ち切りや「日本文化フォーラム」の中心人物の死去などで財政難に陥ったため、1974年2月に編集委員会(竹山・林・武藤・関ら)は解散したが、自由社の石原萠記が単独で経営を続けた[1]

1972年以後は活動が低調だった「日本文化フォーラム」は、1968年に保守系知識人が結集した「日本文化会議」が結成されたこともあり、1976年9月に解散した[1]。「日本文化会議」は文藝春秋から機関誌を刊行しようとしたが、文藝春秋社員からの猛反対に遭ったため、結果として1969年に文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』として創刊された。『自由』は『諸君!』の創刊時にモデルにされたともいわれ、『諸君!』元編集長の仙頭寿顕は「『諸君!』は『正論』でも『新潮45』でもないけど『自由』ではあるかも」と述べている[3]

『自由』の編集委員および執筆者は民主社会主義研究会議(民社研)のメンバーや民社党のブレーンが多かった[4]。関嘉彦によると、60年安保以降、社会思想研究会は反共主義者の団体というレッテルを貼られ、メンバーは多くの総合雑誌から締め出されたため、「日本文化フォーラム」の『自由』や民社研の機関誌に拠った[5]。その後、民社系言論人は1969年創刊の『諸君!』や1973年創刊の『正論』の執筆者となった。

最終号の記事[編集]

  • 蓮坊公爾「虹色の色エンピツ――読書の楽しみ方」
  • 石原萠記「戦後民主主義の功罪(完)」
  • 浅川公紀「戦後アメリカの国際関係(6)ニクソン、フォード外交の軌跡」
  • 城島了「全体主義と闘った人と本(8)「人民戦線」と「左翼全体主義」の源流(4)オーウェルのカタロニアを訪ねて」
  • 坂口義弘「谷中クリニックの無情な医療実態」
  • 石原圭子「米大統領選 オバマ氏勝利への歴史的文脈」
  • 村上巖「世界政治の観察 サルコジはどんな改革者か――どう観察すれば国際政治は見えてくるのか」
  • 杉原誠四郎「「つくる会」は何を目指しているのか――私の会とのかかわりと教科書づくり」
  • 平沼赳夫小山内高行「小山内・リレー対談(12)良き保守勢力の連合政権を作ろう」
  • 安東幹「左翼系弁護士の詭弁」
  • 「マスコミ(秘)情報シリーズ(348)金融恐慌と時代の大転換――世界不況に日本はどう対応 週刊誌記者匿名座談会」
  • 関嘉彦「自由の意味と価値――特に文化的自由について」

出典[編集]

  1. a b c d 関嘉彦「回想録――私と民主社会主義(第十三回)『自由』と『ジャパン・エコー』」『改革者』第39巻第1号(通巻450号)、1998年1月
  2. 林健太郎「六〇年安保騒動の前夜」『知識』第119号(月刊第7巻第10号)、1991年10月
  3. 文藝春秋が刊行していたオピニオン誌『諸君!』(1969年創刊、2009年休刊)の元・編集長による一読驚嘆の回想 草思社
  4. 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年
  5. 関嘉彦「戦後四十年の歩みを回顧して」『改革者』第26巻第5号(通巻303号)、1985年8月