西尾末廣

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西尾 末廣(にしお すえひろ、1891年明治24年)3月28日 - 1981年昭和56年)10月3日)は、社会民主主義右派の労働運動家、政治家。

衆議院議員(当選15回)、内閣官房長官(第2代)、副総理日本社会党書記長(第2代)、民主社会党委員長(初代)などを歴任した。

経歴[編集]

戦前[編集]

香川県香川郡雌雄島村大字女木島(現・高松市女木町)で農業と島内でただ一軒の商店である雑貨商を営む家の三男三女の末子として生まれた。紫山高等小学校を3年で中退し[1]、1906年(明治39年)に大阪砲兵工廠の旋盤工見習となった[2]。鉄工所を転々として熟練施盤工となり[3]、1915年(大正4年)に住友鋳鋼所臨時工として入った。そこで友愛会に入会したが、労働者でない鈴木文治が指導していることや親睦会的な団体であることに不満を持ち、労働者自身による労働組合をつくるべきであり、その本部は大阪に置くべきだと考え、1916年(大正5年)9月1日に堂前孫三郎坂本孝三郎らと4人で「職工組合期成同志会」を結成した。同年秋に住友鋳鋼所争議を労働者側に有利に解決。同志会が翌年末に自然消滅した後、友愛会が戦闘化してきたこと、友愛会大阪主務の松岡駒吉の勧誘もあり、1919年(大正8年)2月に友愛会に再入会した[4]

1920年(大正9年)4月に大日本労働総同盟友愛会大阪連合会会長、6月に大阪連合会主務に就任[5]。1921年(大正10年)5月の大阪電燈争議、5月から6月の藤永田造船所争議など関西の大労働争議を指導し、「東の松岡、西の西尾」と呼ばれるまでになった[6]。1920年12月に三越争議で初検挙[7]。1921年6月に藤永田造船所争議で治安警察法第17条のストライキ誘惑扇動罪で検挙[6][8]、45日間未決収監、1ヶ月間服役。未決収監中に山名義鶴が差し入れたダーウィン『種の起源』、紀平正美『哲学概論』、G・H・コール『労働の世界』、著者不詳『論理学』を熟読し、漸進主義・現実主義的な立場の形成に影響を与えた[7]。1924年(大正13年)4月、ジュネーブで開催される第6回国際労働会議に鈴木文治労働代表の随員として出席するため神戸から出帆。6月の会議終了後[9]、革命後のソ連労働党内閣発足後のイギリスを訪問し、ソ連と共産主義に失望、イギリスのデモクラシーに感心する。アメリカ経由で10月に帰国[10]。12月に日本労働総同盟(総同盟)主事に就任。総同盟内部の左右対立に際し当初は左派の除名に反対するが、1925年(大正14年)4月に最高責任者として左派の除名を断行した(総同盟第一次分裂)[9]

1925年総同盟政治部長、無産政党組織準備委員会委員[6]。1926年(大正15年)労働農民党の中央執行委員に選出されるが、左派への門戸開放に反対し総同盟の同党からの脱退を主導。12月に右派の社会民衆党の結成に参加、中央執行委員。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)に社会民衆党公認で大阪三区から立候補し初当選[11]。1932年(昭和7年)2月の第18回総選挙、1936年(昭和11年)2月の第19回総選挙では落選するが、1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙に社会大衆党公認で大阪四区から立候補し返り咲き当選。この間、1931年(昭和6年)10月総同盟大阪連合会会長[8]。1932年2月から6月に第16回国際労働会議の労働代表として渡欧。7月に社会民衆党と中間派の全国労農大衆党が合同した社会大衆党に参加[12]。11月総同盟主事[8]。1936年(昭和11年)1月に右派の総同盟と中間派の全国労働組合同盟(全労)の合同による全日本労働総同盟(全総)の結成に参加、副会長・大阪連合会会長[6]

1938年(昭和13年)3月16日、衆議院本会議で国家総動員法案を審議中、法案賛成の立場から「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に日本の進むべき道を進むべき」と近衛文麿首相を激励。政友会民政党の両党から「スターリンの如く」が共産主義の宣伝だと非難されたため発言を取り消したが、懲罰委員会にかけられ、23日に本会議で議員を除名された。翌年4月の衆院補欠選挙で復活。社会大衆党内部では旧日労系(中間派)の麻生久三輪寿壮河上丈太郎らと、旧社民系(右派、総同盟派)の鈴木文治、松岡駒吉、西尾らが東方会との合同問題や産業報国会問題で対立[13]。1940年(昭和15年)の斎藤隆夫反軍演説問題では、安部磯雄片山哲、鈴木文治、米窪満亮松永義雄岡崎憲(旧社民系)、水谷長三郎富吉栄二松本治一郎(旧労農系)とともに党議に反して衆院本会議を欠席したため、3月9日に安部と松本を除く8名の代議士は主流派の旧日労系により社会大衆党を除名された(安部と松本は離党)[14]。5月7日に安部や鈴木らと勤労国民党の結成を届け出たが、即日結社禁止命令が出された。1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙(翼賛選挙)に非推薦で当選。

戦後[編集]

大政翼賛会や産業報国会に加わらなかったため、敗戦後は公職追放を免れ、日本社会党の結成・運営の中心となった[15]。1945年(昭和20年)11月、社会党の結成と同時に中央執行委員、議会対策部長に選出。1946年(昭和21年)9月の第2回党大会で片山哲委員長のもと書記長に選出。労働組合の分野では1945年10月の全国労働組合組織懇談会のメンバーとなり、1946年8月に結成された日本労働組合総同盟(総同盟)の常任中央委員に選出された。

1947年(昭和22年)6月1日、片山内閣の国務大臣兼内閣官房長官に就任。1948年(昭和23年)1月の第3回党大会で書記長を辞任。3月10日に芦田内閣の副総理に就任したが、5月26日に土建業者からの献金50万円の届出未提出疑惑が表面化。6月1日に衆院不当財産取引調査特別委員会で証人喚問され、「書記長である西尾個人」への献金だと釈明した。6月11日に最高検察庁は西尾起訴の方針を決定。6月24日に野党が衆院本会議に西尾不信任決議案を提出、178対209の僅差で否決されたが、7月6日に副総理を辞任した。翌日に東京地検から政令328号違反、偽証罪で起訴された。10月6日には昭和電工事件に連座して100万円の収賄容疑で逮捕され、10月8日に社会党を除名、総同盟からも除名された。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に無所属で立候補して落選したが、1952年(昭和27年)8月に右派社会党に復党し、10月の第25回総選挙で当選した。1955年(昭和30年)10月の左右両社会党統一後は党顧問となり、党内最右派の西尾派を率いた。土建献金事件は一審・二審・最高裁で無罪となり、昭和電工事件も1958年(昭和33年)11月に東京高裁で無罪が確定した。

1959年(昭和34年)に日米安保条約の段階的解消論や全日本労働組合会議(全労)支持が左派の反発を呼び、9月13日に第16回党大会は統制委員会付託を決定、10月15日に統制委員会は譴責処分を決定した。西尾派は9月16日に「日本社会党再建同志会」を結成、10月25日に離党して院内団体「社会クラブ」を結成した。1960年(昭和35年)1月24日に西尾派と河上派の一部が合流して西尾新党とも呼ばれる民主社会党(のちの民社党)を結成し、中央執行委員長に就任した。1967年(昭和42年)6月の第9回党大会で委員長を辞任し、常任顧問に退いた。1972年(昭和47年)12月の第33回総選挙には立候補せず、政界を引退した。同年に勲一等旭日大綬章を受章[16]

1981年(昭和56年)10月3日、川崎市の京浜総合病院で脳再出血とその後の腎不全のため死去した。90歳。

人物[編集]

  • 労働運動は革命運動ではなく労働者の生活・地位向上運動でなければならないという立場をとり、労働争議で労働者側が不利になると、ときには会社側に妥協してきたため、左派からはたびたび「ダラ幹」「裏切り」呼ばわりされた[17]。政治の分野でも現実主義・反共主義を貫き、「政権をとらない政党はネズミをとらないネコと同然」という言葉を残した[18]
  • 賀川豊彦を「日本労働運動の母」と呼んだ[19]。西尾は1921年(大正10年)10月に大阪・中之島で開かれた友愛会8周年大会でサンディカリスムや反議会主義を冷静に批判する演説を聞き、賀川を尊敬するようになった[5]
  • 最も感銘を受けた書物に河合栄治郎の『社会政策原理』を挙げている[20]。同じく『社会政策原理』から影響を受けた関嘉彦民社党綱領の起草を委託している[21]
  • 外国の探偵小説を愛読した。外国映画も好きで日本経済新聞にペンネームで批評を書いていた[22]
  • 勤めていた鉄工所の主人の養女と恋愛結婚した。西尾が19歳、妻が16歳のときに生まれた長女は、貧乏で育てられないため大阪の芸者置屋に養女に出され、のちに芸者となった[22]
  • 1956年11月13日に芦田均松岡駒吉らとともに「日本ハンガリー救援会」を結成し、理事に就任した[23]。同会はハンガリー事件に関する募金活動、講演会活動を展開した。

著書[編集]

  • 『大衆と共に――私の半生の記録』(世界社、1951年/日本労働協会、1971年)
  • 『私の政治手帖――風雪六年の日本を顧る』(時局研究会、1952年)
  • 『新党への道』(中村菊男編、論争社、1960年)
  • 『西尾末広の政治覚書』(毎日新聞社、1968年)
  • 『西尾末広想い出の人――対談』(中村菊男共著、民主社会主義研究会議、1968年)
  • 『大衆政治家西尾末廣』(西尾安裕編、日本ジャーナリスト協会出版部、1980年/新政策調査会、1993年)

出典[編集]

  1. 内田健三、中村勝範富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、41-42頁
  2. 升味準之輔『日本政治史3――政党の凋落、総力戦体制』東京大学出版会、1988年、120頁
  3. 臼井勝美、高村直助、鳥海靖、由井正臣編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年、784頁
  4. 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、43-46頁
  5. 5.0 5.1 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、46-47頁
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 塩田庄兵衛編集代表『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、427-428頁
  7. 7.0 7.1 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、49-50頁
  8. 8.0 8.1 8.2 西尾末広関係文書 | 憲政資料室の所蔵資料 国立国会図書館
  9. 9.0 9.1 千本秀樹「<論説>日本労働総同盟の第一次分裂と西尾末廣」『史林』64巻6号、京都大学、1981年11月
  10. 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、54-55頁
  11. 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、56-57頁
  12. 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、59頁
  13. 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、62-63頁
  14. 内田健三、中村勝範、富田信男、渡邊昭夫、安東仁兵衛『日本政治の実力者たち(3)戦後』有斐閣新書、1981年、64頁
  15. 今津弘「西尾末広」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、977頁
  16. 西尾 末広(ニシオ スエヒロ)とは コトバンク
  17. 石川真澄『人物戦後政治――私の出会った政治家たち』岩波現代文庫、2009年、165-166頁
  18. 冨森叡児『素顔の宰相――日本を動かした政治家83人』朝日ソノラマ、2000年、216頁
  19. 賀川豊彦を「日本労働運動の母」と呼んだ西尾末廣! 友愛労働歴史館(2017年10月28日)
  20. 芳賀綏『威風堂々の指導者たち――昭和人物史に学ぶ』清流出版、2008年、172頁
  21. 【正論】「国民が憲法のためにあるのではない」 関嘉彦教授が問い続けた憲法の意味 東京工業大学名誉教授・芳賀綏(2/4ページ) 産経ニュース(2016年11月24日)
  22. 22.0 22.1 冨森叡児『素顔の宰相――日本を動かした政治家83人』朝日ソノラマ、2000年、218頁
  23. 小島亮『ハンガリー事件と日本――一九五六年・思想史的考察』中公新書、1987年、127頁

関連文献[編集]

  • 幡谷藤吾『職工から大臣まで――西尾末廣傳』筑波書房、1948年。
  • 日本経済新聞社編『私の履歴書〈第3集〉』日本経済新聞社、1957年。
  • 加藤日出男『風雪の人西尾末広』根っこ文庫太陽社、1966年。
  • 遠藤欣之助『改革者西尾末広――自由に生きる真の革新』根っこ文庫太陽社、1972年。
  • 大河内一男『暗い谷間の労働運動――大正・昭和(戦前)』岩波新書、1976年。
  • 高橋彦博「戦時体制下の社会民主主義者 : 帝国議会における西尾末広」『社会労働研究』26巻1号、法政大学社会学部学会、1979年。『現代政治と社会民主主義――三つの潮流とその実験』法政大学出版局、1985年。
  • 芳賀綏『指導者の条件』三修社、1980年。
  • 江上照彦『西尾末広伝』「西尾末広伝記」刊行委員会、1984年。
  • 高木郁朗監修、教育文化協会編『日本労働運動史事典』明石書店、2015年。
  • 梅澤昇平『安部磯雄と西尾末廣――日本民主社会主義の系譜』桜耶書院、2016年。
  • 名越健郎『秘密資金の戦後政党史――米露公文書に刻まれた「依存」の系譜』新潮選書、2019年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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