村松剛
村松剛(むらまつ たけし、1929年3月23日-1994年5月17日)は、フランス文学者、批評家、小説家。
人物[編集]
東京生まれ。父は精神科医の村松常雄、母方の祖父は田部隆次、妹は女優の村松英子。1954年東京大学文学部仏文科卒、大学院へ進んでポール・ヴァレリーを研究するかたわら、佐伯彰一、遠藤周作らと批評誌で活動する。1961年、イスラエルでアイヒマン裁判を傍聴、62年アルジェリア独立戦争に従軍。立教大学助教授として教えていたが、69年の学園紛争に際して大学に批判的な立場をとり懲戒解雇される。右翼的な立場をとり、1970年の三島由紀夫の自殺に衝撃を受ける。71年京都産業大学教授となる。75年筑波大学教授。同年『死の日本文学史』で平林たい子文学賞を受ける。78年『帝王後醍醐』を上梓。『教養としてのキリスト教』『ユダヤ人』などの著作があり、イスラエル寄りの立場をとった。『評伝ポール・ヴァレリー』もある。
1981年、天皇を中心とする右翼的な団体「日本を守る国民会議」の呼びかけ人となる。82年、フランス政府から教育功労章オフィシエを受章。79年から87年にかけ日本経済新聞日曜版に、木戸孝允の伝記小説『醒めた炎』を連載し、菊池寛賞を受賞。90年、天皇の代替わりに際して左翼過激派により官舎に放火されたが、怪我などはなかった。65歳で死去。
日本文化会議発起人・初代事務局長[1]・企画委員[2]・理事[3]、民主社会主義研究会議(民社研)理事、統一協会系「東アジアの平和と繁栄を守る会」メンバー、日本安全保障研究センター(安保センター)理事、内外情勢調査会理事、自由社会研究会メンバー、自由言論委員会委員、言論人懇話会同人、SAS学校(社労研)講師[4]、日本自由主義会議理事・発起人、教科書正常化国民会議理事、天皇陛下御在位六十年奉祝委員会代表委員、建国記念の日奉祝運営委員会運営委員[3]。