佐藤寛行
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佐藤 寛行(さとう ひろゆき、1930年7月20日[1] - 1993年12月17日)は、政治評論家[2]、労働評論家[3]。筆名・関屋信太郎(せきや しんたろう)[1]。民主社会主義研究会議(民社研)事務局長[2]。
経歴・人物[編集]
中国山東省青島市生まれ[2]。大分県出身[4]。1954年中央大学法学部法律学科卒業、日本社会党本部(右派)に勤務。1959年10月社会党本部を退職、1960年1月民社党の結党に参画し、綱領と規約の作成の事務方を担当。民社党本部教宣局長、民社新聞編集局長を経て、1969年9月末に同党本部を退職[2]。この間、1962年社会思想研究会(社思研)理事・事務局長[5]。1969年に独立、労働教育研究所を設立し理事長に就任[2]。1972年民主社会主義研究会議(民社研)理事、1980年事務局長[6]。1993年12月17日、胃がんのため死去、63歳[2]。
社思研の第2世代にあたる。社思研第1世代の土屋清が自宅で開いていたゼミに参加していた。田久保忠衛は早大在学中に友人の佐藤の紹介で土屋ゼミに参加した[7]。のち「佐藤寛行・冨山功ゼミ」を開き、社思研の第3世代を育成した[8]。社会党書記局では西尾末廣、曾禰益と社思研の連絡係を担い、民社党設立後はその事務局の中心を担った[9]。
著書[編集]
- 『組合員とリーダーの労働組合ハンドブック』(大場鐘作、三浦恵司、篠原健蔵、井上甫共著、日本生産性本部労働資料センター[生産性労働選書]、1976年)
- 『日本の政党綱領』(民主社会主義研究会議[民社研叢書]、1977年)
- 『組合員とリーダーの新・労働組合ハンドブック』(大場鐘作、三浦恵司、篠原健蔵、井上甫共著、日本生産性本部労働資料センター[生産性労働選書]、1982年)
- 『日本国憲法を考える』(西修共編、学陽書房[学陽選書]、1983年)
- 『戦後・日本労働運動小史』(大場鐘作共著、再改訂版、日本生産性本部生産性労働情報センター、1991年)
- 『組合員とリーダーの労働組合ハンドブック』(大場鐘作、三浦恵司、篠原健蔵、井上甫共著、日本生産性本部労働資料センター[生産性労働選書]、1991年)
分担執筆[編集]
- 民社研編『民主主義は生きのびうるか――戦後日本の再検討』(民主社会主義研究会議[民社研叢書]、1976年)
- 関嘉彦編『労働組合と政治活動』(民主社会主義研究会議[民社研叢書]、1978年)
- 堀江湛編『新しい政治社会システム』(芦書房、1984年)
- 重枝琢巳編『労働運動――二十一世紀へジャンプ』(民主社会主義研究会議[民社研叢書]、1988年)
追悼集[編集]
- 佐藤寛行追悼集刊行会編『追想・佐藤寛行』(佐藤寛行追悼集刊行会、1994年)
出典[編集]
- ↑ a b 日外アソシエーツ編『現代日本人名録 第2巻』日外アソシエーツ、1987年
- ↑ a b c d e f 『改革者』第34巻11号(通巻403号)、1994年2月、31頁
- ↑ 全金同盟30年史編集委員会編『全金同盟30年史――民主的労働運動の構築と大金属産業組織への総結集』全国金属産業労働組合同盟、1982年
- ↑ 佐藤寛行、西修編『日本国憲法を考える』学陽書房、1983年
- ↑ 社会思想研究会『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年
- ↑ 政策研究フォーラム編「創立40年の歩み――民社研から政研フォーラムへ」『改革者』第41巻第1号(通巻474号)、2000年1月
- ↑ 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(72)後継者編(3-3)(1/4ページ) 産経ニュース、2016年12月10日
- ↑ 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(7)沖縄返還前のころ(3/5ページ) 産経ニュース、2015年11月21日
- ↑ 関嘉彦「回想録――私と民主社会主義(最終回)エピローグ 唯一筋の道」『改革者』第39巻第6号(通巻455号)、1998年6月