全日本労働組合会議

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全日本労働組合会議(ぜんにほんろうどうくみあいかいぎ)は、1954年総評を脱退した右派系組合(全繊同盟海員組合全映演)と総同盟が結成したナショナルセンター。略称は全労会議全労

概要[編集]

1951年3月の総評第2回大会で全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対・再軍備反対の平和四原則が採択されると、同年9月に単独講和支持・平和四原則反対を主張する民同右派や総同盟の有志が民主労働運動研究会(民労研)を結成。1952年12月に全繊同盟海員組合日放労全映演が秋の電産・炭労ストを受けて「総評指導方針の批判」を発表し、総評の階級闘争主義、政治的偏向を批判(4単産声明)。1953年2月に4単産や常磐炭連、総同盟などが民労研を改組して全国民主主義労働運動連絡協議会(民労連)を結成。同年7月の総評第4回大会後、民労連は総評内部からの改革を断念。7月に海員組合、9月に全繊同盟、11月に全映演が総評を脱退し、1954年4月23日に民労連を母体にして全日本労働組合会議(全労会議)を結成した。3単産と総同盟、84万600人(ほかにオブザーバー2組合、8800人)が参加。議長は滝田実(全繊同盟)、副議長は古賀専(総同盟)、書記長は和田春生(海員組合)。社会党右派、1960年結成の民社党の支持母体となった。

近江絹糸争議(1954年)を指導し、日鋼室蘭争議(1954年)や三井三池争議(1959〜60年)などでは組合の分裂、第二組合の結成を指導した。1955年に設立された日本生産性本部への参加をめぐり、積極的な総同盟・海員組合と否定的な全繊同盟が対立したが、1956年7月の第2回大会で「全労5原則」を条件に参加を決定した。1962年4月、全労と総同盟の二重構造が組織競合問題に発展したこと、民社党の選挙地盤を整備する必要があることから、全労から総同盟と全官公がいったん分離し、3団体が並列に加盟する連絡機関として全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)を結成した。議長は中地熊造(海員組合)、議長代理は片山武夫電労連)、事務局長は天池清次全金同盟)。1964年4月に全労として国際自由労連に一括加盟。同年11月10日に全日本労働総同盟(同盟)を結成するために解散した。

加盟組合[編集]

1954年4月の結成大会当時の加盟組織[1]

のちに日本駐留軍労働組合(日駐労)、日本自動車産業労働組合連合会(自動車労連)、全国電力労働組合連合会(電労連)、全国民営交通労働組合(全交労)などが加盟した。1959年に全労加盟の官公関係組合が全日本官公職労協議会(全官公)を結成した。

出典[編集]

  1. 日本労働協会編『全日本労働組合会議(全労)資料目録PDF』日本労働協会、1968年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]