弘文天皇
弘文天皇(こうぶんてんのう、648年(大化4年) - 天武元年672年7月23日(672年8月21日)は、日本の第39代天皇。即位に関しては議論があり、大友皇子(おおとものみこ)、伊賀皇子(いがのみこ)の諱で呼ばれることも多い[1]。
概要[編集]
父は第38代天皇の天智天皇で第1皇子[1]。母は伊賀采女宅子娘[1]。『懐風藻』が伝えるところによると大友皇子は博学多通で文武の才幹があり、沙宅紹明らの亡命百済人を賓客としていたとある。天智10年(671年)1月に史上初の太政大臣に任命される[1]。同年に父帝が崩御すると後継者として近江大津宮で政務を執った[1]。
しかし天武元年(672年)、壬申の乱で叔父の天武天皇(大海人皇子)と戦うことになり、7月22日の瀬田川の決戦に敗れて逃亡しようとするも果たせず、翌日に山前(現在の滋賀県大津市の長等山か京都府乙訓郡山崎町の両説あり)で縊死したという[1]。享年25[1]。その首級は不破宮(現在の岐阜県不破郡)の大海人皇子の下に奉られた[1]。
これにより、48代称徳天皇まで皇統は天武天皇の血筋に移ったが、臣籍に下った著名な子孫に淡海三船がいる。
即位論争[編集]
天智天皇の死後に大友皇子が即位したかどうかは江戸時代より議論となっており、定かではない。『日本書紀』には父の天智天皇が死後に弟である大海人皇子(のちの天武天皇)に皇位を譲る約束をしていたが、後に天智が反故にして大友皇子に皇位を譲ろうとしたため壬申の乱が起きたと記されている。そのため大友皇子は即位せず称制を執っていたと解釈することもできる。しかし日本書紀を編纂したのは天武天皇の子・舎人親王であり、史実が天武側に有利に改竄されている可能性も否定できないとされている。『懐風藻』はあくまで皇子、あるいは皇太子と記録している。平安時代中期になるといくつかの史料で大友皇子が即位したと記録するものもあり、前田家本『西宮記』裏書などで皇子の即位を記している。江戸時代では『大日本史』や伴信友によって大友皇子即位説が唱えられている。
明治期になると即位説が優勢となり、当時の明治政府がそれに従い、明治3年(1870年)7月に当時の明治天皇により弘文天皇の諡号を奉った[2]。ただしこの時期には皇后の倭姫の即位説を喜田貞吉が、称制説を黒板勝美が唱えるなど多くの新説も唱えられた[2]。実際に即位の証拠が無く学術的には推測に過ぎないことから現在では非即位説の立場に立ち大友皇子と呼称する場合が多い。しかし明治期に奉られた諡号は撤回されておらず弘文天皇として歴代天皇の代数にカウントされている。
そもそも即位したか否かは即位の礼が執り行われたかどうかの名分的な問題でしかなく、大友皇子が天智天皇崩御後の近江朝廷の大権の主であったことは事実で、その大権は天皇と変わりなかったとされ[2]、現在の学会ではさほど重要視されていないのも実情である。そのためこの議論に決着は付いていない。
墓所[編集]
系譜[編集]
天智天皇の第1皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。
異母兄弟姉妹
- 兄弟姉妹の表記は第一皇子、第二皇子等の記述を基にしたが、序列的な意味合いもあるため実際の生誕順ではないことがある。
- 兄弟:建皇子・川島皇子・志貴皇子
- 姉妹:大田皇女・鸕野讃良皇女(持統天皇)・新田部皇女・大江皇女(以上:夫天武天皇)・明日香皇女(夫:忍壁皇子)・御名部皇女(夫:高市皇子)・阿陪皇女(元明天皇、夫:草壁皇子)・山辺皇女(夫:大津皇子)・泉皇女・水主皇女
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2006年10月、ISBN 456966704X)
- 所功『歴代天皇 知れば知るほど』(実業之日本社、2006年)
- 米田雄介『歴代天皇 年号辞典』(吉川弘文館、2003年)
関連項目[編集]
歴代の天皇陛下の一覧 |