近衛天皇

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近衛天皇(このえてんのう、保延5年5月18日1139年6月16日) - 久寿2年7月23日1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。躰(体)仁(なりひと)[1]

生涯[編集]

父は第74代天皇の鳥羽天皇で第9皇子[1]。母は藤原得子(美福門院)[1]。父帝に寵愛され、生後3か月で異母兄で第75代天皇である崇徳天皇皇太弟に指名される[1]。しかし崇徳天皇は自らの皇子に皇統を継承させたい思いがあり、鳥羽上皇は早く躰仁を即位させたい思いがあり、そのため鳥羽上皇は崇徳天皇に躰仁に譲位した場合に躰仁を崇徳天皇の養子にする条件を出したという。この場合、崇徳天皇が院政を執れる可能性もあるため譲位を了承したが、3歳で即位した近衛天皇は鳥羽天皇の皇子として扱われて養子の件は棚上げされており、崇徳上皇の鳥羽上皇に対する恨みだけが残る形になった。

3歳で即位した近衛天皇に政務を執ることは不可能であり、鳥羽上皇(法皇)の院政が行なわれた。12歳の正月左大臣藤原頼長養女である多子が入内して近衛天皇の皇后に立てられる[1]。すると4月には頼長の兄である藤原忠通の養女・呈子も入内して中宮となった[1]。これらはいずれも天皇の外祖父として摂関家である藤原氏が政治の実権を握ろうとする目論見だった[1]

天皇自身は鳥羽法皇に溺愛されていたが非常に病弱で、在位の15年間で御帳(貴人の御座所の帳)から出ることは非常に稀だったという[1]。近衛天皇の在位の間に藤原忠通・頼長兄弟の確執、鳥羽法皇と崇徳上皇の確執など後の保元の乱に繋がる対立因子を幾つも生み出しながら、近衛天皇は眼病のため、久寿2年(1155年)7月23日に崩御した[1]享年17[1]

皇子・皇女いずれも無かったため[1]、没後に継嗣問題が発生し、異母兄の雅仁親王が後白河天皇として即位する当時としては異例の継承状態を迎えることになった。

后妃[編集]

脚注[編集]

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2006年10月)、P188

参考文献[編集]